0706 幼女と
※オリキャラの幼女(ウォードの娘)がでます
来客のチャイムが鳴ったのは、まるでそれを見計らっていたかのように、通話を切ってすぐのことだった。
ドアを開ければ、人の顔があると思われた場所には宙があるだけで、可愛らしい声は足元から聞こえてくる。
「キロちゃま、おたんじょうび、おめでとございます」
母親に教えられたのだろう。小さな両手をちゃんと揃えて深々とお辞儀をする姿は、たとえようもなく愛らしい。
「ありがとう。一人で来たのかな?」
「あたし、キロちゃまのおいわいするの」
ふんわりとした薄ピンクのドレスに、白のエナメルのフォーマルシューズを履いたこの少女は、酒に酔ったウォードが百回はかわいいと言い、酒に酔わなくても百万回はかわいいと絶賛する件の末娘、キャロラインだ。少し前に五歳になったばかりで、年齢のわりにはしっかりしているけれど、愛情を注がれた子どもの良いところをすべて併せ持った、愛すべき女の子だった。
なるほど、ウォードの「迷惑をかける」という言葉はここに繋がるのか。みんなが今日のホストを仄めかすときにやけにニヤニヤしていたのも頷ける。
「君がお祝いしてくれるのか、うれしいね。どんなプランだい?」
「あのね、キロちゃま、ゆうえんちいきたいかなっておもって」
思わず笑いがこみ上げてきた。つまり、私の誕生祝いにかこつけて遊びにつれていけということだ。心当たりはある。ウエストコーストの人工島に作られ半月ほど前にオープンしたばかりのテーマパークで、キャロラインは行きたい行きたいと父親にねだっていた。仕事の都合がつかず先延ばしにされ、頬を膨らませて拗ねている姿をよく見かける。
それでドレスアップの理由も合点がいった。そのパークでは公序良俗に反さない範囲内で仮装の自由が認められていて、特にドレスを着ていくとプリンセスの扱いをしてもらえるのだそうだ。
ここまでお膳立てされてしまえば、行かないわけにはいかない。慎ましく配慮の行き届いた夫人がこんな計画を許すわけがないから、おそらくエルオーネの差し金だろう。小さな子どもの喜ぶ顔が見られるなら、それはすばらしいアイディアだ。なんの異論もない。
「よくわかったね、ずっと遊びに行きたいと思っていたんだ」
しゃがんて目線を合わせると、キャロラインはうれしそうに笑って言った。
「キロちゃま、おきがえして」
「何を着ていこうかな」
「エルちゃんが、これきなさいって」
廊下の壁に立てかけられていたガーメントバッグを手に取り、中を検めてみた。入っていたのは黒いタキシードだ。プリンセスに釣り合うためには、これくらいの覚悟は必要だろう。
「おきがえしたら、はやくいきますよ」
「はい、わかりました」
急に大人びた口調で母親の真似をするのがおかしくて、笑いを堪えながら、洗面所で手早く着替えた。どう下準備したのかエルオーネの見立ては完璧で、ボタンもすべてぴたりと留まった。先日出かけたとき、やたらとフォーマルシューズを勧めてきたのは今日のためだったようだ。
身支度を整えた私を見て、キャロラインは手を叩いてはしゃいでいる。
「キロちゃま、すてき」
「ありがとう」
「スコールちゃまの、にばんめ」
また笑いがこぼれた。ルナティックパンドラの事件でSeeD指揮官に助けられてから、彼の奥さまになることを夢想して止まないのだ。頬に手を当てうっとりと将来の旦那さまを思い描くたび、父親は《ガルバディアの巨神竜》と恐れられたころの顔つきに立ち戻されている。とはいえ我々はまともに戦地に辿り着かなかったので、ごくレアな呼び名ではあるのだが。
そういえば、確かスコールちゃまは当日も来るようなことを言っていた。シティを離れれば、ここに帰ってこられるのは日が暮れてからになるだろう。すれ違ってしまうかもしれない……などという心配は、送迎車の前に立つ、ブルーグレイのベストに白いジャケットを合わせた、いかにも花婿装束という姿を見つけて吹き飛んだ。おまけにいうと、とうとう吹き出した。もちろんキャロライン嬢は頬に手を当て、くるくる体を揺らして喜んでいる。
「スコールちゃま、すてき!」
「ありがとうございます」
「スコールくん……今日来ると言っていたのは、このためだったんだな」
「本日、モーグリドリームランドに護衛として同行させていただきます、バラムガーデン所属SeeDスコール・レオンハートです。よろしくお願いいたします」
これは任務、と顔に貼り付けて微塵も表情を変えない。さすがにこの格好で出歩くのは恥ずかしいのだろう。我に返らないよう仕事に集中するこの姿勢、心中察するに余りある。
──快適なリムジンの後部座席に並んで座り、キャロラインに尋ねたところ。
スコールちゃまのパーク行きをねだったら、父親に「SeeDを雇うには大変な額の依頼料がかかる」と言われたので、毎日肩叩きをして頑張ってお金を貯めたのだそうだ。その額なんと五百ギル……健気なことだが、おそらくその千倍ほどの依頼料を、父親が補填したに違いない。愛娘を外出させるなら、それくらい信頼のおける護衛がついていないと許可できないだろう。
「でも、まだ行ったことがないのだったね? 初めて行くのが私とでいいのかな。お父さんが悲しむんじゃないかい?」
「おとうちゃまは、きょう、いっしょにねてあげるから、いいの」
随分扱いが雑だ。父親と娘の関係というのはこんなものなのだろうか。私の妹は兵士であった父を尊敬し、常に畏まっていたものだが、あのときから時代は変わった。戦争を経験しない子どもがのびのびと育つのは、他の何物にも代えがたい良い変化だと思う。
「ああ、それに、スコールくんと一緒にデビューというのも思い出になるか」
「スコールちゃまとボートにのる!」
名前を口にするだけで照れているのがとても可愛い。気になる男に花婿装束を着せて遊園地に(五百ギルで)連れ出す強引さがあるようにはとても見えない。しかしこのまま決行すれば、次週のティンマニ発行のゴシップ誌に華々しい見出しで掲載されそうだ。あとでこっそり差し押さえしておくか。
予め話を通しておいたらしく、一般駐車場とは違うゾーンで車を降りた。私たちと手を繋いで歩きたいというので、キャロラインを中心にして、時々ブランコみたいにぶら下げて揺らしてやったりしたのだが、よく考えるととても奇妙な図だ。スコールの顔が無表情通り越して虚無になっている。あまり浮かれるのはやめよう。
「クポっ!? プリンセスの登場クポ! モグたちの世界へようこそクポ!」
ゲートをくぐった途端、三日は耳から離れないような特徴的な口調の、やけにテンションの高い声が聞こえてきた。白い毛皮に、赤い大きな鼻、オレンジのようなボールを頭につけていて、コウモリに似た羽を持っている。生物の進化を完全に無視した造りの着ぐるみたちは、このテーマパークのメインキャラクターであるモーグリだ。
プリンセスと呼ばれたキャロラインはご機嫌で、着ぐるみのひとつに抱きついている。写真を撮れと言われたので撮った。父親業というものに縁がないもので、気が利かなくてすまない。
「かっこいい王子さまが二人もいるクポ! どっちがプリンセスの運命の王子さまクポ?」
語尾がすべてクポなのに、肯定と疑問が明確にわかるのがすごい。役者の演技力の賜物か、それともこのテーマパークの教育が行き届いているのか。
私たち三人は似ても似つかないので、クポたちもどう判断していいのかわからないのだろう。キャロラインはスコールの足元にとことこと歩いていって、
「こっちがおうじさまで」
続いて私のところに来て、
「こっちは、あいじん」
禁断の関係を結ばれてしまった。そんな言葉誰が教えたんだ。昼の大人向けドラマを盗み見たのか? それとも年の離れた兄弟が? なんでもエルオーネに結びつけるのは彼女に悪い。もしかしたらラグナかもしれない。
これ以上クポたちが反応に困っているのを見るのは忍びない。私は名残惜しそうなキャロラインと虚無を促し、パークの中を進むことにした。
「キャロライン、どのアトラクションに乗りたいんだい?」
目をキラキラさせてあちこち見回す彼女に尋ねる。てっきり明確な主張があると思ったのだが、可愛らしく首を傾げて見上げてきた。
「キロちゃま、なにがいい?」
「私?」
「キロちゃま、おたんじょうびでしょ」
「そう言えばそうだったね」
「いっしょにのってあげる」
そうは言っても、このパークの下調べを何もしていない。ウォードならガイドブックのひとつも買っていたかもしれないが、私が知っているのは仮装可だということと、夢を壊さないようにバックヤードは厳しく管理されていること、主にそれらは地下に隠されていることくらいで、どんなアトラクションがあって、何が人気なのかは知らないのだ。
入り口でもらったパンフレットを開いて確かめてみた。ところどころは抱っこで移動するにしても、キャロラインの足で広大なパークをすべて回り切るのは厳しい。彼女の好きそうなアトラクションに目星をつけて行くほうがよさそうだ。
そういえば、スコールとボートに乗るのだと言っていた。《レテ川いかだの旅》だろうか。それとも《パルムの海賊》か。いや……おそらく《イッツ・ア・ファンタジーワールド》だな。幻想的に描かれた様々な世界を船にのって鑑賞する、全年齢向けアトラクションらしい。
「それじゃあ、これはどうだい?」
指を差して説明すると、うれしそうに頷いている。
「先にスコールくんと乗ってきて、感想を聞かせてくれるかな? おすすめだったら、私も乗ってくるよ」
「えっ、いや俺はいい。あんたの誕生日なんだから二人で行ってきてくれ」
「クライアントの護衛が君の任務だろう? 離れてどうするんだ」
「うっ……」
「スコールちゃま……」
うるんだ瞳で見つめられてノーを貫けるはずがない。スコールは観念して、キャロラインの手を取り乗り場へと歩いていった。
あのくらいの年代の男子は恥ずかしがるかもしれないが、私は別に、羞恥心から辞退したわけではない。もともと目立つ容姿のせいで、他人の批判的な視線は常に感じていた。だからといって自分が変わるわけでもなし。子どもが喜ぶアトラクションに同乗したならしたで、それなりにその状況を楽しむだろう。今回は、私を未知の場所に連れ出してくれたキャロライン嬢の望みを優先したというだけだった。
二人が行ってしまったので、近くのベンチに座って待つことにした。混雑しているわけではないが、戻ってくるまでそれなりに時間がかかりそうだ。そこで道行く人たちを観察するのも楽しい作業だった。たとえば客の多くは親子連れで、モーグリの頭についている謎のボールの被り物をした子どもが、満面の笑みではしゃいでいる。次に多いのはカップルか。女性のほうが活動的で、男性のほうがあとから追いかけているのをよく見た。若い女性のグループや、稀に男性のグループもいる。総じて笑っているのが印象的だった。
だからこそ、その中で、じっと唇を噛んで俯いている姿は目についた。二つほど向こうのベンチに、私より前から一人の少女が座っている。年のころは、キャロラインよりふたつかみっつ上くらいだろうか。どこかで見かけたことがあるのだが思い出せない。襟と袖、裾にレースのついた黒いワンピースに、白いレースの靴下と、黒いシューズ。ストレートの黒髪には白い百合のカチューシャをつけて、古風な良家の子女という趣だ。どれも清楚な顔立ちによく似合っていて、大きなボストンバッグを膝の上に抱えているのが唯一不似合いだった。
一人で遊びに来ている客もちらほら見かけるが、あのくらいの子どもが付添もなしというのは考えにくい。保護者とはぐれたのだろうか。下手に関わらずパークのスタッフに任せるべきだが、この辺りは客の立ち止まるエリアではない。放っておけば、いつまでも気に留められない可能性がある。
話しかけよう、と決めたタイミングで、元気良く名前を呼ばれた。見ればキャロラインが駆け寄ってくるところだった。げっそりとしたスコールが、その後ろで、少し離れたところにあるフードワゴンにちらりと目をやっている。飲み物か何かを買ってくるということだろう。
キャロラインは膝の辺りに抱きついてきて、息を弾ませて言った。
「キロちゃま! たのしかった!」
「そうか、よかったね」
「キロちゃまものる? もっかい……」
そこまで言ったところで、彼女も少女の存在に気づいたらしい。迷うことなく近づいていって、にこにこと声をかけた。
「こんにちは!」
「…………」
「どうしたの? まいご? いっしょにあそぶ?」
どんな町でも、たとえ声を失っていても、困っている人がいれば誰にでも親切であったウォードの面影が見えるようだ。彼は今でも多くの人に好かれていて、特に子どもたちには絶大な人気がある。あんな幼い少女に声をかけることさえ躊躇う私とは大違いだ。
そうはいっても、五歳の子どもに世話を任せるわけにはいかない。それに、なんとなくあのバッグが気になる。少女が遊園地で持つには嵩張るし、大人びているからだ。
「やあ、さっきからずっと一人でいるね。誰かとはぐれたのかい?」
「…………」
「こわくないよ、キロちゃま、やさしいよ」
見ず知らずの大人に話しかけられて怖いのかと思ったが、どうもそういうわけではなさそうだ。バッグをぎゅうと抱いて、俯いていやいやをしている。
見せてくれと頼んでも許されないだろう。せめて様子を伺おうと屈んだとき、ほんの微かに、しかし確かに、カチカチと時を刻む音が聞こえた。私は反射的にバッグを奪い取って、人のいない樹林に向かって投げつけた。少女たちに覆いかぶさるようにして庇うのと、背後でバッグが爆発するのはほとんど同時だった。
通りがかった若いカップルが尻もちをついて、背後の爆発を呆然と眺めている。悲鳴が上がったのは数秒遅れて、危機を認識してからだった。
あっという間にパニック状態に陥り、客たちは一斉にゲートに向けて走り始めた。あちこちからクポクポいう誘導の声が聞こえてくる。こんな非常時にもキャラクター性を損なわないのは尊敬に値する、お陰で客も落ち着いて避難できるだろう。
「二人とも、大丈夫かい? 怪我は?」
ぱっと見た感じでは、咄嗟に地面について手のひらを擦りむいたくらいで、大きな怪我はないようだった。それでも痛いだろうに、キャロラインは涙を堪えて気丈に振る舞っている。
「へいき……」
「えらいぞ。君は……」
ワンピースの少女は、スカートをくしゃりと握りしめ、がたがたと震えている。今の今まで自分が持っていたバッグが爆発したのだ、一歩間違えば自分も吹き飛ばされていた。怖くないわけがない。
向こうから、カラフルなフロートを両手に持ったスコールが、またたく間に臨戦モードに入って駆寄ろうとする姿が見えた。私はちらりと目をやり、それを制した。わかってくれという願いは伝わったようで、彼はさっと身を翻し、客たちに紛れて駆け去っていった。
「私たちも逃げよう。立てるかい?」
腰が抜けているらしい少女を助けようとして、手を振り払われる。
「だめ……!」
「どうして? 留まるのは危ないよ、火が燃え移るかも」
「だめ、ここにいる!」
激しい拒絶だが、そうも言っていられない。二人を抱き上げ、走りだそうとした。間一髪で避けられたのは、明らかな殺気を感じたからだ。
破裂音とともに、近くの外灯が割れた。爆発とは違う、これは銃声だ。やはりこの子は狙われている。それならば、他の客たちと一緒に逃げるのは危険だ。
銃弾の飛んできた方向から察するに、射撃手は二人いるようだった。遮蔽物の少ないパークで死角を作るように動くのは難しかったが、途中でうまい具合に、カモフラージュされたバックヤードに続く扉を見つけた。関係者に危害が及ぶ可能性も考えないわけではなかった。しかし、ひとまず中で時間を稼ぎたい。
内側から鍵をかけて薄暗い地下に下りると、スタッフも総出で客の誘導に出ているのか、幸い付近に人影はいないようだった。責任者のいるコントロールルームには人が残っているだろうが、想定外の緊急事態だ、警備隊に派遣要請をして、スタッフも避難を優先しているかもしれない。
下りた場所から離れ、ある程度見通しの良い、しかし身を隠す場所もそれなりにある資材置き場のようなところに辿り着いた。二人を壁際の大きな箱のそばに座らせ、自分は出入り口の見渡せる場所に立つ。逃げている間は健気にも声を上げなかったキャロラインが、きょろきょろと回りを見回して聞いてきた。
「スコールちゃまは?」
「モーグリ? みんなと一緒に逃げたみたいだよ」
聞き間違えとしてはかなり厳しいが、なんとか押し切るしかない。私は人差し指を立てて二人に静寂を要求しながら、黒髪の少女にジェスチュアで予め謝って、そっとカチューシャに手を触れた。
……やはり、あった。発信器だ。最近全世界向けに売り出された、位置情報と音声を送信するタイプのエスタ製。精度はかなりいい。私はそれをそっと取り上げ、音を立てないようにハンカチを敷いて、床の上に置いた。
さて、命を狙われた少女に発信器がつけられている理由はどんなことが考えられるか。まずはあのバッグと、こんな少女が一人で不似合いな場所にいるわけ……取引だ、おそらく誰かの身代金。近くに味方の監視者がいるはずだが、先程の騒ぎでは姿を表さなかった。そして、金もしくは取引の材料が入っているはずのバッグには、代わりに爆弾が入れられていた。
爆弾は少女の命を狙った、もしくは取引相手を狙ったかのどちらかだろう。時限式か遠隔操作式かはわからない。私が近づいたのを見て、取引相手だと思ったのかもしれない。どうにせよ、少女を巻き込むことを想定していたのは確かだ。時限式なら確実に彼女の手を離れるであろう時間を設定するはずだし、遠隔操作式ならばなおさら、荷物が相手の手に確実に渡ったのを確認してから起爆する。つまり、爆弾には確実に取引相手を殺傷する目的はなかった。標的は彼女なのだ。
ならば、狙っているのは誰か。たとえば、人質にされた誰かのために取引を任されていたとして、彼女に発信器をつけるとしたら、それは味方サイドの人間のはずだ。バッグの中に爆弾を詰めたのも味方側の人間。要するに、彼女は信じている誰かに裏切られている。
「ここに隠れていれば安心だよ、少し様子を見よう」
私はそう言いながら、通信端末を取り出して打ちこんだテキストを、少女に見せた。
──会話を悪い人たちに聞かれている。話す言葉には気をつけて。
戸惑っている少女に、キャロラインはとびっきりの笑顔で言った。
「おなまえ、なんですか。あたしはキャロライン。こちらはキロちゃま」
怖いだろうに肝が座っている。その雰囲気に引きずられるようにして、少女はぽつりと答えた。
「……アリス」
つながった、アリス・コーエン!
ドールを本拠地とする高級ファッションブランドグループ《アロ》の会長、ベンジャミン・コーエンの一人娘だ。元ファッションモデルの若い妻との間に六十を越えて出来た子で、雑誌で何度か特集を組まれているのを読んだことがあった。
コーエンファミリーは、数日前からウエストコーストのリゾート地でバカンスを楽しんでいるというニュースを見た覚えがある。そこで重要な誰かが誘拐され、この場所が取引場所に選ばれたのだろう。ここは人も物も多く紛れ込みやすい。彼女の監視者もさぞやりやすかったに違いない。
幼い少女が取引に指名され、それに応じたとなれば、誘拐されたのはベンジャミン・コーエンその人だ。彼が判断を下せる状態にあるのなら、愛娘をみすみす危険に晒すことなど許さない。いかなる資産を投じてでも、他の方法を交渉するはずだ。
アリスはベンジャミンの相続人であり、彼女名義の《アロ》の株もかなりの額になると聞いている。ベンジャミンとアリスが亡き者となれば、誰かしら利益を得る者が出てくる。それが誰かは今この場において重要ではない。問題の解決はドール公国の管轄で、私がすべきことは、少女たちの安全を確保した状態でここを脱することだ。
そこまで考えたところで、頭上からカツンという音を聞いた。通気口の蓋が外され、見知った顔が現れる。私たちのいた位置から、逃げ込んだ場所を推測して追いかけてきてくれたのだろう。キャロラインが声を立てなかったのは幸いだ。私は咄嗟に指を立て、次いで床に置いた盗聴器を指さした。スコールは頷き、なるべく音を立てないよう資材を伝うようにして下りてきた。車から武器を持ってきたらしく、動きにくいジャケットを脱いで、背中にガンブレードを背負っている。
「アリス、パパやママは、一緒じゃないのかな」
盗聴を意識して話しかけながら、端末で文字を入力してスコールに見せる。
「……今日は、ひとりで来たの」
──ベンジャミン・コーエンの娘。おそらくベンジャミンが誘拐、身代金取引。黒幕は関係者。通信傍受を警戒。
──車からエスタとガーデンに連絡、至急応援。
「ひとりなの? じゃあ、あたしといっしょにあそぶ?」
スコールも同じ方法で、手短に返してくる。突然現れた男に戸惑いを隠せないアリスの相手をキャロラインに任せ、私はスコールとの会話に集中した。
──二人を連れて来た道を戻れ。私は中で追手を。
──二人は難しい、モンスターが出る、かなり多い。あんたも。
彼が通ってきた道なら安全に脱出させられると思ったものの、そうもいかないらしい。一緒に脱出してもいいのだが、そうすると探しに来た追手に挟み撃ちにされる可能性がある。身動きができないような狭い場所で、子どもを守りながら戦うのは危険だ。スコールは優秀なSeeDだからこそ、自分を過大評価も過小評価もしない。彼が難しいと言うのなら、ここで賭けにでないほうがよさそうだ。
それならば、一人ずつ順番に連れ出してもらうか……いや、彼がここまで早くこの場所に辿り着けたのは、自分一人で身軽だったからだ。子どもを連れていては倍以上の時間がかかるだろう。その間に盗聴器からの電波を辿って、追手もここに辿り着く。
スコールとなら確実に逃げ切れる、アリスをスコールと逃がすべきだ。それはわかっていたが、私にはどうしても、キャロラインを危険に晒す決断ができない。彼女はウォードの娘だ。私にとってかけがえのない親友の家族。
二人に目をやる私を見上げ、キャロラインは首を傾げるようにして私に言った。
『わたし、キロちゃまと、いる。スコールちゃま、アリスをつれてって』
ウォードが使うハンドサインを、幼い子どもがたどたどしく使っている。その健気な様子に心を打たれる。指先に、彼の精神が宿っている気がした。
サインを読めないスコールとアリスが、じっと私を窺っている。説明するのももどかしく、私は首を振って端末を見せた。
──危険だ、駄目だよ。
『ここにいるの、もっときけん。あたし、だいじょうぶ』
しばらく沈黙が続いている。これでは盗聴している敵を警戒させてしまうかもしれない。
「とにかく、ここにいても仕方がない。出口に向かって移動しよう」
「い……いや、わたし、パパを助けなきゃ……」
──大丈夫、この人はSeeDだ。悪いようにはしないよ。一緒に行くんだ。ただ、口ではここにいると言ってくれ。悪い人を困らせるために。
「キロちゃま、あたし、おなかすいた」
「帰ったらケーキを食べよう……さあ、行こうか」
「こ、ここにいる」
「そうか……じゃあ、すぐに助けを呼んでくるから、動かないで待つんだよ」
ジェスチュアでスコールに指示を出した。アリスを連れて外へ、私はキャロラインと行く。スコールの存在はまだ敵にバレてはいないはずだ。盗聴器をここに置いておけば、しばらくの間アリスの位置を誤魔化せる。
バッグの爆破を見届けるだけなら、それほど多くの人員が配置されていたとは思えない。計画の失敗が報告されて増援があったかもしれないが、パークもマニュアルに従ってすぐに閉鎖されただろうから、きっと外に締め出されている。あのとき撃ってきたのは二人、他にチームリーダーと伝令がいるとして、せいぜい四人だ。こちらにはキャロラインがいる。撃破するよりも戦わずにやり過ごして、安全な場所まで逃げ延びたい。
少女を抱き上げ、頭の中でパークの地図と方角を重ね合わせながら、慎重に足を進めた。園内に残った客を探しているとしたら、警備員や従業員のほとんどは地上に出払っているだろう。警備が手薄になった隙に、別の出入り口からバックヤードに敵が侵入している可能性は大いにある。
盗聴器の集音圏内から十分に離れたのを見計らって、腕の中に大人しく収まっているキャロラインに声をかけた。
「キャロライン、怖い思いをさせてすまない。必ず無事に帰れるからね」
「あたし、こわくない」
かわいそうに、心配かけまいと精いっぱい強がっているのだ……そんな浅はかな考えは、続く言葉に否定された。
「おとうちゃまがいってた。いちばんすごいひとは、ラグナちゃまだけど、いちばんつよいひとは、キロちゃまだって」
「……ウォードが?」
「うん。だから、あぶないときは、キロちゃまのそばにいなさいって。だからあたし、へいき」
その言葉から、私の襟を握りしめる手から、ウォードの信頼が伝わってくる。私が取り立てて強いという事実はない。元は数あるうちの兵士の一人で、ウォードやラグナよりも少しばかり任務の幅が広かったというだけだ。一対多数の戦場では、彼らのほうがよほど強かった。
だが、そう信じられているだけで、自分にも何かを成し遂げられるような気がした。彼の信頼に報いたいと、強く思った。
「でも、キロちゃま、かわいそうね。おたんじょうびなのに」
「ああ、そういえばそうだったね」
「あとでケーキ、いっしょにたべようね」
「エスタに帰ったら、付き合ってくれるかい?」
「うん!」
「お客様!」
突然声をかけられ、振り向いた。懐中電灯を持った作業服の男が焦った様子で佇んでいる。歩き方がどこかぎこちないのが気になった。
「パークでの騒動で迷い込まれてしまったのでしょうか。ここは従業員専用通路です。ご案内しますので、一緒に避難しましょう」
「…………」
キャロラインをそっと足元に下ろし、耳元で目を閉じているように囁いてから、地面を蹴った。ライトを持っていた手を掴み、もう片方で顎を打ち上げて相手を引き倒す。呻きながら伸ばそうとする手を蹴り払い、鳩尾を突いて意識を奪った。体を検めれば、やはり武器を持っている。撃ってきたうちの一人だろうか。
目が覚めて追ってこないよう、タイを利用して腕を縛っておいた。ウォードに教わった海軍仕込みの方法だ、まず自分では解けないだろう。
「キロちゃま……もういい?」
「大丈夫だよ、さあ、行こう」
言いつけ通り目を閉じていた少女を抱いて、幾分か足取りを速め先を急いだ。敵は地下に入り込んでいる。予想ではあと三人。全員が地下にいるとは限らないが、アリスの不在はいい加減バレているに違いない。彼女を連れて逃げたところを見られているから、私は当然敵として認定されている。スコールたちを助けるためには、私が二人を連れ歩いていると思わせておきたい。
ところどころに地上への出口がある。外に出るか、地下を進むか……外に出れば標的になりやすいが、警備の応援を受けられるかもしれない。地下を進めば身を隠しやすいが、逃げ場がない。パンフレットを見たので地理的要素は地上のほうが把握している。地下は地上と同じ造りになっているわけではないだろうから、見当違いの方向に向かわないという点で、地上に行くべきだ。だが見晴らしの良い場所ではキャロラインを隠せない。私のところにいるのが彼女一人だと気づかせてしまう。
アリスが一人で出歩いていると信じさせられるだろうか? 難しいだろう。盗聴器を囮に置き去りにしてある。いくら利口だからと言って、あの年齢の子どもがそんな策を弄するとは思われない。
さて、どうしようか。迷っていると、気分がざわざわしてきた。こんなことはまずない。はっと昔のことを思い出した。そうか、これは。
積み上げられた機材の向こうから微かな足音を聞き、膝を屈めて身を隠した。ここの関係者なら、こんなふうに気配を隠そうとはしないはずだ。慎重に進んできてはいるが、靴の踵の音を隠せていない。プロだとしても、こういう仕事に慣れているわけではなさそうだ。
銃を持っているとして、こんな見通しの悪い狭い場所では、相手を視認できない限り撃ってはこない。これはチャンスだ。
声を潜めるキャロラインのそばに、作業員の私物であろう未開封の缶飲料がある。指で示せば、すぐに心得て手渡してくれた。キャリーラックの下の隙間に黒い靴が現れるまで待って、ある程度の重さのある缶を転がした。
薄暗い地下では、足元に転がって来たものを一瞬で判断できない。経験が浅ければ、尚更気を取られるはずだ。私がラックを飛び越えたときには、爆発物と思ったのか大袈裟に体勢を崩しかけていた若者が、慌てて私に向けて銃を構えようとしているところだった。
あとは同じ、動きを封じて急所を狙い、無力化するだけだ。拘束には相手のベルトを使い、その端をラックに結びつけておいた。
あと二人、このまま地下で敵を引きつけることも考えたが、地上への階段がすぐそばにあるのを見つけて、外に出ようと思った。頭の中に正確に地図を描けていれば、ここはパークの西南辺りで、出入り口にも比較的近い。次の階段がどこにあるかわからず、この先は下手したら行き止まりという可能性もある。決断をこれ以上遅らせられない。
地上に出る、頭の中で言葉にしてから、念のためにキャロラインを待たせて階段を上った。前の二人はこちらの動きを追ってきていた。もしも彼らの位置情報が伝わっていれば、扉の向こうに敵が待ち構えていないとも限らない。
ドアノブに手をかけようとしたのと、扉が開くのはほぼ同時だった。もっと呑気な状況であれば、あまりに出来すぎのタイミングに思わず笑っていただろう。私と同じくらいの上背のガタイのいい大男は、ほんの少し怯んだだけで、すぐに胸倉を掴んできた。手を外そうとする私に、左腕が殴りかかってくる。腕で防いだが、この巨体だけあって打撃が重い。手加減していられない、もう一撃食らわないうちに、相手の頭に手を伸ばして首を捻ろうとする。当然反撃に遭い、バランスを崩して、もつれあうように階段を転がり落ちた。
体勢が悪かった。呻き声を上げる間もなく乗り上げられ、体重をかけるように腕で首を圧迫された。力が強いだけでなく隙も無い。もがいてはみるのだが、まるで外れそうにない。
目の前がふわりと歪み、意識を失いかけた。あと数秒続いていたら落ちていただろう。何故男の力が弱まったのかわからないまま、反射的に頭を抱き込んで、そのまま締めつける。なんとか相手の意識を奪ったときには、みっともなく息が上がっていた。
乱れた襟元を整えながら顔を上げると、しゃがみこんだキャロラインが、倒れた男の足の辺りを指で突いている。目が合い、澄ました様子で言った。
「かみついたの」
なるほど。相手にダメージを与えられるような攻撃ではなかっただろうが、虚を突くには十分だったということだ。
「キロちゃま、あぶないとおもって」
「ありがとう……助かった。次は君に無茶なことをさせないように、もっと気をつけるよ」
「はい、おねがいします」
急にかしこまった言葉遣いをするのに心癒される。今朝迎えに来たときもそうだった。あのときは、まさかこんな事件に巻き込まれるとは思ってもいなかったけれど。
あの衝撃でよくぞ無事だった、ポケットの中の端末が振動した。発信元はスコールだ。
『無事か?』
「無事だが……通信は傍受の危険が」
『問題ない。こちらは外に出て、アリス・コーエンをガーデン側で保護した。彼女の証言と照らし合わせて、造反の疑いがある《アロ》会長秘書に雇われたフリーの元傭兵グループを実行犯とみて捜索。避難した人間の中に紛れていたリーダーと思わしき男を見つけて、たった今確保したところだ』
私が戦ったのは三人、スコールが確保したのが一人だ。銃を持っていたのは二人で、目の前で伸びているのは、明らかに腕力重視の武闘派だった。もしものための伝令役がいると予想していたが、司令塔が兼任していたのだか。
「フリーの元傭兵か……諜報に慣れない戦闘特化のグループじゃないか?」
『そのようだな、ガルバディアの起こす戦争で雇われていたらしい』
「仕事がなくなって、こんなつまらない依頼を請けるようになったんだな」
『まともな依頼はガーデンが独占しているから、そうでもしないと食っていけないんじゃないか』
当人がさらりと言う言葉は、元傭兵とやらに聞かせたら気の毒に感じるほどだ。
『その端末の場所に応援をやる。場所を動かないでくれ』
「ありがとう」
『あ、あと……依頼主に、危険に晒してすまなかったと……』
「わかった、伝えるよ」
電話を切ってから、興味津々な眼差しで見つめてくるキャロラインに向って笑いかけた。
「スコールくんからだよ。怖い思いをさせてすまなかった、お詫びに今度一緒にパフェを食べようと」
「ほんと? やったぁ」
少々話を盛ってしまったが、今日のキャロライン嬢にはこれくらいの褒賞があっても良いだろう。普通の子どもなら、泣き喚いて足手まといになっても仕方がないような体験をしているのだ。
それからほどなくして、ガーデンの制服を来た二人組がピックアップにやってきた。落ち着いた雰囲気の男と女で、手には銃を持っている。
「指揮官の指令によりガーデンより参りました。お迎えが遅くなりまして申し訳ございません」
「……君たち二人だけか?」
「はい、この辺りは避難が完了しており、危険も確認されておりません。他のメンバーは爆発があった辺りを重点的に安全確認しております」
「お嬢ちゃん、怖かったでしょう。怪我はない?」
「だいじょうぶ。スコールちゃまのともだち?」
「そうよ。すごく心配してるわ、一緒に行きましょう」
「うん」
フォーマルな行事のときのスコールと同じ装いに、完全に気を許したのだろう。駆け寄るキャロラインを止めようとして、間に合わなかった。手を伸ばしたときには彼女は女のほうに羽交い絞めにされて、頭に銃を突きつけられていた。
恐怖に表情を引きつらせるキャロラインを手で宥め、そのまま両腕を上げて、無抵抗の意志を示す。
「……子ども相手にそこまでする必要が?」
男のほうも、こちらに向けて銃を構えている。引き金に指がかかっている、本気だ。
「彼女はコーエンファミリーとは無関係だ。逃がしてやってくれ」
「俺たちがガーデンの人間じゃないと疑っていたようだな、何故だ?」
「この件を担当している指揮官の指示なら、君たちはバラムガーデンから来たはずだ。だがバラムガーデンで銃を使う者はほとんどいないと聞いている。それに、確かにガーデンは年齢制限を廃したが、たった一年ほど前のことで、君たちのような年齢の戦闘員はいない」
「ひとつひとつは決定的ではないが、組み合わせれば疑うに十分ということだな。いったいおまえは何者だ? 何故取引の場所に来た?」
「君たちは信じないだろうが、私はただの客の一人だし、あの場所に居合わせたのも本当に偶然だ」
「あんたが言わないのなら、この子にやさしく聞いてもいいのよ。たとえば、この細くて小さな小指から」
キャロラインは必死に涙を堪えて耐えている。どんなに立派でも、彼女は訓練を受けていない幼児だ。これ以上ストレスは与えたくない。
「……わかった、話すよ。私は、ある国の要人の護衛官だ。今日は非番で、その子と一緒にここに遊びに来た。一人でベンチに座るアリス・コーエンを不審に思って話しかけたんだ。あとは君たちが見ていた通りだ」
「無関係なら、何故アリスを連れて逃げた?」
「あのタイミングで逃げない人間がいるかい? 子どもが狙われていて銃撃までされた。無関係でも見過ごせないだろう」
「ある国というのは?」
「それこそ無関係では?」
小さな悲鳴が上がった。キャロラインが女に手を捻られている。
私は溜め息をついて、諦めて答えた。
「……エスタだ」
「エスタだって?」
「私はともかく、その子に手を出さないほうがいい。彼女に何かあれば、君たちがどんな言い逃れをしようと、エスタは徹底的に報復する」
「そんな脅しは通用しないわ。この子がエスタの要人というなら、アリスからこの子に鞍替えするだけよ」
「アリスの暗殺には失敗したが、ベンジャミンはまだ君たちの手の内にあるんじゃないのか? 《アロ》との交渉はまだ続いているだろう。我々にかまけている場合ではないのでは?」
「随分と込み入った事情を知っているな。やはりアリスに雇われたんじゃないか?」
「状況から導き出しただけだよ。この馬鹿げた問答はなんのためにしているんだ?」
「アリスはどこだ?」
「なんだって?」
「これで最後だ、アリスはどこだ?」
どうやら……私は思い違いをしていたようだ。地下をうろついていた二人を銃撃犯と思っていたが、あの二人はこのグループのメンバーではなかったのでは? いくら諜報に不慣れとはいえ、あまりに手ごたえがなさすぎた。
はじめは敵の勢力を、二人のスナイパー、伝令、リーダーと考えていた。目の前の男の風格から、この男がリーダーであり、女とともにスナイパーだろう。先程の大男は予想になかった戦闘要員で、外であっさり捕まったのが伝令。ならばこの二人は今まで園内に潜伏していて、私たちの保護にやってきたガーデンのエージェントたちを襲って入れ替わったのだ。私がアリスと一緒にいたところは目撃されていたのだから、私を探すのは道理というものだ。
つまり、彼らはスコールがアリスを連れ出したことを知らない。もしかしたらアリスに仕掛けられた盗聴器の存在も知らないかもしれない。
「……地下で、銃を持った二人の男と交戦した。彼らから連絡が入っていないのか?」
「尾行や変装が下手くそな二人だろう? あいつらは、クライアントが俺たちの監視のためにつけたんだ」
「信用されていないのか」
「初仕事なんでね。とんだ横やりが入ったが、おまえがエスタの所属というのなら、逆に利用してやる」
「エスタを誘拐の黒幕にしようとでも? ベンジャミンの資産は確かに巨額だが、エスタからみればたいした価値はない。それに万が一誘拐するとしても、素性の知れない外部の傭兵など使わないよ」
「余計なこと喋ってないで、こっちの質問に答えな!」
どうやら女のほうが短気らしい。銃を振りかぶり、グリップで頭を殴ってきた。急所には当たらなかったが、体がふらついたのを見逃さず、膝の後ろを蹴飛ばしてくる。抗わずに膝をついた。
「可愛いお嬢ちゃんの頭が蜂の巣になるのが見たいの? それともあんたを殺して、泣き喚くお嬢ちゃんから聞き出そうか?」
「さっさと私を殺してその子を人質にするといい」
「なんだって?」
「アリス・コーエンは既にガーデンが保護している。またエスタは今ごろ、事件の早期解決を迫ってドール公国に圧力をかけているはずだ。首謀者はベンジャミンの秘書だということだから、ドール公は秘書を厳しく取り調べるだろう。君たちの存在に行きつくのは時間の問題だ。クライアントに忠誠心がないのなら、さっさとベンジャミンを捨てて逃げたほうが身のためだと思うね」
「こいつ!」
「キロちゃま……!」
とうとう我慢が利かなくなったらしい男に地面に引き倒され、馬乗りになって殴りかかられた。まったく、今日の私は誕生日だったんじゃないのか? お祝いにサンドバッグにされるなんて聞いたことがない。だが銃を使うことを忘れて殴ってくれるなら、時間稼ぎとしては上出来。打撃の質も、階段で戦った男のほうがずっと上だ。これなら耐えられる。
さんざん殴られてから、殺してやるという掛け声とともに銃を額に突きつけられた。不意をついて銃身を掴み、引き寄せて、勢いのまま頭突きする。鼻を押さえてよろめいた男を押しのけ、武器をもぎとるように奪った。
女はキャロラインを手放し私に銃を向けてくる。だが銃弾は空に向けて飛んだ。後ろから丸太のように大きな手が伸びてきて、行く先を変えたからだ。女が状況を理解するよりも早く、その怒りには到底釣り合わないほど繊細に、彼は女の首の後ろを打って昏倒させた。
エスタの兵士たちが駆けてきて、呻く男と意識のない女の体を拘束する間、駆け付けた私の親友は、とうとう緊張の糸が切れて泣き出した愛娘を強く抱きしめていた。
「おとうちゃまぁ……!」
『怖かったな、もう大丈夫だ』
「キロちゃまが、キロちゃまがしんじゃう!」
「生きてるよ、キャロライン」
「だって……っ……ちがいっぱいでてるもん……」
「見た目ほどは痛くないんだ、ほんとうだよ」
痛むことは痛むが、あれだけ殴られればこんなものだろう。
それより、せっかく楽しみにしていたお出かけが、こんな結果になって申し訳ない。キャロラインは本当に怖かったはずだ。ウォードにもなんと謝ればいいか。
ひとしきり腕の中で娘を泣かせてから振り向いたウォードに、私はばつの悪い思いで呟いた。
「すまない……こんなことになって」
『いや、おまえが謝ることじゃないだろう』
「だが私が首を突っ込まなければ、キャロラインはこんな目には遭わなかった」
『それを言うなら、俺がおまえをキャロのお守りに送り込まなけりゃ、こんな事件に巻き込まれなかった。俺のほうこそ悪かった。この子を守ってくれてありがとう』
「あのね、キロちゃま、つよかったの」
『俺の言った通りだったろう』
「うん、キロちゃまがいちばんなのね」
涙の光る目を細め、せいいっぱい笑う顔を見て、うれしいよりも申し訳なさが勝る。不可抗力であったとはいえ、もっといい方法を探せればよかった。
私がそう言うと、ウォードは少し怒ったように返した。
『これ以上いい結果があるか? おまえはぼこぼこに殴られて色男が台無しだが、誰も死んでないんだぞ。ベンジャミンはまだ保護できていないが、めちゃくちゃ怒ったラグナが多方面にめちゃくちゃに圧力をかけているから、そのうち敵も音を上げて解放するだろう』
「やっぱり、そういうことに、なってしまったか……」
『エスタ大統領の息子を巻き込んで、旧友と旧友の娘を危険に晒したわけだからな。まあラグナが怒らなくても、俺がドールに殴りこんでいただろうが』
「ドールに行かずにここに来てくれたのは、エルオーネのおかげだな」
彼女に頭の中を覗かれている確信があった。スコールはエスタにも報告をしたと言っていたから、エルオーネがほんの少し過去の私の行動を追跡しているのなら、誰かしらが駆けつけてくれると信じて時間を稼いでいたのだ。まさかそれがウォードだとは考えてもいなかったが。
彼は頷いて言った。
『エルオーネも気にしていた。おまえに無理を言ったせいでと』
「無理なんかしていないよ、キャロラインと出かけられてうれしかった。欲を言うなら、一緒にボートに乗れたらもっとよかったね」
『ボート?』
「スコールちゃまとのったのよ」
キャロラインがウォードに楽しげにアトラクションの説明を始めたところで、スコールちゃまから着信があった。ひどく恐縮して、私が二言目を口にするまでに百回は謝られた。ガーデンのエージェントが成り代わられた件に関してだ。襲われた面々は、アトラクションの中に気を失った状態で放り込まれていたらしい。命まで取られなくて何よりだった。それに、ああして相手が接触してこなければ、取り逃がしていたかもしれない。ウォードの言葉の通り、結果的にはすべて良い方向に向かった。あとは少女たちの心の傷が早くに癒えることを祈るばかりだ。
私はといえば、叶うことなら一刻も早く部屋に戻って、シャワーを浴びて、なんの問答もせずに眠りたい。今日は私の誕生日だ、それくらいの我が儘は許されてもいいのではないか。
まあ無理だろう。見方を変えれば、命があったのは誕生日の加護とも言える。怒られるほうがずっといい。遠く離れた場所で死ぬよりは、生きてあの場所に帰るほうが。
つづく