ほろ酔いで呟かれたラグナの言葉を聞いて、困ったな、と思った。いいや、言葉そのものには思いやりがあったし、自分のことを考えてくれているようでうれしくもあった。だがその感謝を差し引いても、舌の上でざらつく苦味が後ろめたさを誘う。旅の途中の、ある夜のことだった。
その晩は、夜行列車に二日半ほど揺られ辿り着いた町で、久々の宿に浮かれていた。軍属だったころは野営ばかりで、過酷な旅程に慣れていないわけではない。それでも旅が快適であるに越したことはなく、窮屈で硬い二等車両のシートに座りっぱなしでは、眠った気にもなれなかった。どんな安宿でも、あのシートに劣るベッドはないだろう。横になれるのであれば雑魚寝でも構わないくらいだったから、ベッドとバスルームだけの狭い部屋でもよければ三部屋用意できるという申し出に、一も二もなく飛びついた。冬の間の閑散期、格安であっても部屋を埋めたいという宿側の思惑が見て取れたが、別に一人寝のできない子どもではあるまいし、三人旅には縁遠いプライベートな時間を作るためにも、部屋を分けることは悪くない提案だった。
壁もドアも厚みのない木造の造りは、上階や同じフロアの物音をよく通してしまう。幸い部屋はそれぞれ離れていたので、自室に荷物を置いてまもなく、そっと部屋を抜け出し、三つ隣のラグナの部屋に赴いた。ひそやかなノックのあと、すぐに返答があった。不用心なことにドアの鍵を開けたままにしているようだ。酒に酔ったラグナは、そういう注意力をどこかに忘れてくることがある。
ベッドだけがかろうじて収容されているような窮屈な部屋で、ベッドの上のラグナは脱いだブーツの置き場所にすら悩んでいる始末だ。体の大きなウォードでは、扉のところから身動きできないくらいだった。
結局ラグナは、お行儀よく靴を並べることを諦め放り投げた。くたびれたブーツはしょんぼりとベッドと壁の隙間に挟まっている。明日の朝、探し出して救出するのに苦労することだろう。
「なんだよ、飲み直し? あいつも呼ぶ? この部屋狭ぇけど。おまえの部屋のがいいんじゃね?」
瞼は重く、今にも眠りに落ちそうな具合だ。ウォードは首を振り、なんとか体の向きを変えてベッドの端に腰掛けた。
付き合いが長いのはラグナのほうだ。軍の宿舎では長らく同室だったし、年齢は相手のほうがふたつ上だが、同じ年の人間に抱くような親近感があって、なんとなく馬が合った。風変わりな年下の友人と出会うまでは、集団のはみ出し者となった二人がこそこそとつるんでいるだけの、ありふれた友情関係だったのではないかと思う。
だからかもしれないし、違う理由からかもしれない。ラグナと二人きりで話しているときは、気のおけない関係に甘えて、素直に本心を打ち明けられるのだった。
夜半に一人で訪れた友人の顔を見て、ラグナはくだけた態度を少しばかり改めた。酔っているとはいえ、前後不覚になるほどではない。思いつめた表情に気づかないわけがなかった。
『声のことには触れないでくれ』
ラグナはまだ細かなハンドサインを覚えていない。込み入った話をするため持ち込んだボードに、十分躊躇ってから、その一言を書き入れた。
ほとんど寝っ転がっていたラグナは、体を起こして胡座をかき、癖のつかない髪を気まずそうにかき混ぜて言った。
「……それは、おまえが思い出したくねえことだから?」
どう説明したらいいか考えているうちに、答えを待たずに続けられる。
「それとも、あいつが気にしてるから?」
見抜かれているとは思っていなかった。ラグナは親切で人当たりがいいが、特別人の心に聡いわけではない。彼自身がはっきりと自立した精神を持っているためだ。誰かに同調して立ち止まるより、常に前を向いて先導する。風見鶏のように行くべき道を示している。時にくよくよと行き先に迷うウォードにとって、その姿に背中を押されたシーンは幾度もあった。振り返らず、顧みない。シンプルな行動力は慣れてしまえば好ましいもので、振り返られないことが心地よくも感じられるようになった。だからこそ、彼が真実を突いてきたことに驚きを隠せなかったのだ。
酒が入り気が大きくなって、「おまえの声も出るようになるかもなぁ」と言った。目指しているエスタは科学技術の発達している国らしい。長居するつもりはなくとも、もしも失った声を取り戻す手段があったなら、と。
ラグナは夢を語るようにうっとりしていたし、あいつはただただ笑って黙々と飲んでいた。その微妙な表情に気づけたのは自分だけだと、ウォードは思っていた。
ウォードが頷くのを見て、ラグナは眠そうな目をぼんやりと投げ出し、少しばかり途方に暮れたように呟いた。
「あいつが責任を感じる場面だったか?」
『もっと適切な応急処置ができたんじゃないかと』
「あいつがうまくやりゃ、声は無事だった?」
いいや、あり得ない。あの攻撃は喉の機能を一撃で破壊した。どんな優れた治癒魔法でも、消失した器官を再生することはできない。なおかつあれは致命傷となり得る傷で、自らも深い傷を負いながら力を尽くして命を繋いでくれた友人がいなければ、間違いなく生き延びられなかっただろう。
そんなことは本人もよくわかっている。病院に運び込まれ処置を受けて、意識のないウォードの代わりに医師から状況の説明を受けたのだ。機能の回復が望めないことも、最速で最適な治療を受けていたとしても結果は変わらなかったことも、よく承知しているはずだった。
それでも思い詰めている。もう理屈ではないのだ。そういう繊細でやさしい部分が、あの友人にはあるのだった。
「そんとき一緒にいなかったから、オレにゃなんか言う資格ねえのかもしんねえけど……」
ラグナはまた頭を掻いている。離れていた空白の時間をそんな仕草で誤魔化そうとしているようでもあった。
「おまえに声が戻ったらいいって願うことは、悪いことじゃねえし、当然のことだろ。にっくきエスタの技術だって関係ねえよ、その手段があるんなら、オレはなんも躊躇わねえ」
『だが……』
「あいつだっておんなじだ。何を引き換えにしても、おまえの声を聞きたいって思うはずだ。おまえのサインを、あいつはよく読み取れるけど、昔みたいに話せたらそれが一番いいだろ」
『…………』
「まあ……でも、おまえがそうしたいってんなら、もう言わねえよ。悪かったな」
酔いに浮かされた眠りの際の会話だったというのに、夜が明けてもラグナはきちんと覚えていて、それからずっと口にしようとしなかった。エスタに人生に絡めとられたのちも、約束とも言えないような個人的な願いを尊重してくれた。
……声が戻ったらいいと、願わないわけがない。ウォードはエスタで家庭を持ったが、子どもたちの「なぜ」に、自らの声で答えてやれないもどかしさがあった。いとしい人々の名前を呼べない切なさがあった。そしてそれを敏感に察してしまうのは、家族ではなく、いつも、年下の友人だった。
激務の合間を縫って、ほうぼうのセミナーを受けていることを知っていた。魔法だったり、再生医療だったり……こっそり調べてみれば、医療工学のものもあった。そこで得た知識や技術をそれとなく勧め、声を取り戻す術とならなかったことに落胆する。隠したがっているようだったから、ウォードは何も言わなかった。ラグナもまた、気づいていただろうが、知らないふりをしていた。
後になって、ちゃんと言葉に出して伝えるべきだったと悔やんだ。どうか気に病まないでくれ。おまえのせいじゃない。感謝こそすれ、恨んだことなど一度もない。声はなくともおまえがわかってくれる。それだけで、俺はじゅうぶんなのだと。
ラグナがその話を持ち出してきたのは、宿での会話から数えて三十年近く経ってからのことだった。失った声帯の機能を補うマシンの目処が立った、試してみないか?
外傷や病により声を失うケースは、なにもウォードに限ったことではない。その研究にラグナが個人的な援助をしていたのは、ウォードのためかもしれないが。
ウォードはもちろん躊躇わなかった。そのころには声を取り戻したいと痛切に望んでいたからだ。結果として、声は出た。だがそれは実際の声とは似ても似つかない、抑揚の乏しい電子的な声だった。
第一声を待ち構えていたラグナは、明らかに落ち込んで、力なく笑った。期待していたような効果が得られなかったからだ。
『だが……サインなしで……会話ができるのは……いい……ことだ……』
一音発するのにも苦労して、痛みを覚えるほどだった。顔に出さないよう努めてはいたが、うまくいったかどうか。
たぶん二人とも消沈して、くすんだ窓越しにやわらかな日差しを感じながら、じっと黙り込んでいた。疲れ果てたラグナは、最近めっきり老け込んだ。頬の皺は濃く、髪も灰を通り越してほとんど白い。せめて勇気づけてやりたかった。停滞するおまえの時間の中で、変化し前進しているものもあるのだと、教えてやれたらよかったのに。
結局、ウォードはその試作品を取り出し、また声なき生活に戻った。ラグナは相変わらず研究への援助を続けているようだったが、もう二度と、ウォードに試させるようなことはしなかった。
「おとうさん……おとうさんの声、こんな声だったのね」
感極まって、末娘は目を潤ませている。既に成人した子どもを持つ立派な母親だけれど、ちいさな手を伸ばし声を上げて笑う、生まれたばかりのころの姿が重なるようだった。
老いた自分の面倒をよく見てくれる娘の名を、一番に呼びたいと思っていた。万が一のことがあって落胆させないように、この場には他の家族を呼ばなかったのだ。ここにいるのは、娘と、それから。
「ウォードおじちゃん、私も呼んで」
「エルオーネ」
弱々しくも、確かな声だ。電子の音ではなく、本当に喉が震えている気がした。
エルオーネは泣かない。少なくともウォードの前で取り乱したことは、過去に一度しかなかった。近しい人の死のときでさえも、誰もが力なく涙に濡れる中、気丈にその場を取り仕切っていた。今もまた、ぐすぐすと鼻をすする娘の肩を叩いて慰め、微笑んでいる。
畑違いの分野の研究者であるエルオーネが援助を受け継いでいてくれたことを、ウォードはごく最近知ったばかりだ。親友の遺志を無駄にしたくない。もう恐れるものはない。体力的にも、これを逃せばチャンスは二度と回ってこないだろう。失敗したっていい、悔いは残らない。
だが今度こそ、それは実現した。実現してしまえば、喜びよりも、何故もっと早くでなかったのかという口惜しさのほうが強かった。自分ではなんの努力もしなかったくせに、本当に必要なときに間に合わなかったことが悲しかった。
年齢を重ねてもなおエネルギーに満ち、若かりし頃の面影を宿したエルオーネは、娘に声をかけて、しばしの間二人きりにしてくれと頼んだ。そうして対峙して、ようやくウォードは尋ねた。
「俺の声は、どうだ?」
今となっては、ウォードの声を知る人間はもう何人もいない。直接語りかけたことはなかったが、エルオーネはその特殊な能力で、声を失う前のウォードを知っている。自分では自分の声を客観的に聞くことはできない。成果を確認するためには、彼女に頼む以外方法がなかったのだ。
たとえ元の声に戻らなかったとしても、これを自分の声として、残りの人生に連れてゆこうと決めていた。何故なら、家族にとって、これこそウォードの声だからだ。夫であり、父であり、祖父であり、曾祖父でもある。愛すべき家族に恵まれた人生だ。彼らのためならば、嘘さえ真実にするつもりだった。
エルオーネは笑って言った。
「うん、おじちゃんの声だよ」
「そうか……」
「あったかくて、ちょっとひょうきんで、とってもやさしいウォードおじちゃんの声。でもね、私は接続して聞いただけ……本当にそれを証明できる人は」
「もういない……そうだな、もう、いないんだ」
嘘を真実にしてもいい。だけれど真実ならもっとよかった。喜び合いたかった。二人に頷いてほしかった。
鈍い沈黙を見計らったかのように、エルオーネの持っている通信端末が音を立てた。仕事に追われて滅多に顔を見せない弟かららしい。
「こんな時間にどうしたんだろ……外で出てくるね」
「スコールによろしくと」
「うん、声のことも伝えるね」
エルオーネが去り、ひとりになった。ウォードは棚の上に並べた写真立てから、特に古いものを選んで手に取った。すべてがデータ化されているエスタにおいて、紙の写真を大事に飾っているのはウォードくらいのものだろう。
大きな指でその表面をなぞる。涙は不思議とこぼれない。諦めとともに、とっくに枯れてしまった。
ただ、涙はなくとも心は叫んでいる。もう一度、もう一度、おまえたちの名前を呼びたかった。おまえたちと語り合いたかった。ラグナ……そして。
おまえと過ごした日々よりも、おまえなしで生きた時間のほうが、ずうっと長くなってしまった。それでもおまえがあのとき俺の命を繋いでくれなければ、こうして声を取り戻すことも、家族に囲まれて生きることもできなかった。
今となればわかる。気にしていたのはウォードのほうだった。取り戻したいと望み、叶わなければ、深く傷つくのは自分自身。だから、やさしい友人を傷つけたくないなんて言い訳をして逃げていた。自分の願いに向き合うのが怖かったのだ。
ラグナは気づいていて、臆病な誤魔化しに付き合ってくれていたのだろう。感情をすべて表に出しているようで、肝心なことは隠す男だった。振り返らなくとも、後からついてくる仲間のことを、心の底では深く気遣っていた。
別れのときに間に合わなかったのは、逃げていた報いだ。その瞬間、名を呼んで引き留めたかった。指先の言葉だけではなく、想いを音にして、逝くなと縋りたかった。
これからの自分にどれだけの時間が残されているかはわからないが、この無力感が拭われることは一生ないだろう。それでも生きてゆかねばならない。ふたつの喪失は、身を引き裂かれるほど悲しくて、しかし命と引き換えにするほどの絶望ではない。この両手は多くの縁と繋がれている。倒れても、溺れそうになっても、誰かが立ち上がらせてくれる。
できることなら、その誰かに、俺はなりたかった。おまえたちの名を呼び、立ち上がらせてやりたかった。
おわり