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5.エルオーネと

 

 出勤前の時間に押しかけてきて、ローブを纏う前の私を強引に椅子に座らせ、エルオーネは言った。

「ルールを説明します」
「なんの?」
「いいから聞いて。今日からキロさんに七日間のお休みをあげます。そのうち五日は有給です。見て」

 彼女が取り出したのは、官邸の主要メンバーの名が書かれたリストだ。見るのも嫌になるような小さな文字で、それぞれ名前の右側にパーセント表示の数字が書いてある。
 私の名前はその一番下にあって、エルオーネは掲げた紙を指先でバンバン叩いた。

「もうおわかりでしょうけど、これは過去五年のみんなの有給取得率です。なんなの、この2.1パーセントって。年に一日も取ってないってことよ、おかしいでしょ。忙しい忙しいって言ってるおじちゃんだって、47パーセントは取ってるのよ。おかしいでしょ」
「正規の休日で事足りているし、職場はすぐそばで体力的にも問題がないし、仕事に行かない理由がない」
「もう、そんなこと言ってたらブラック企業みたいに思われちゃうでしょ。上司が休まないと部下も休みにくいんだから、やることなくても休みくらいちゃんと取ってちょうだい」

 それもそうか、部下たちには悪いことをした。休暇の取得は推奨していたつもりだけれど、口で言っても私が働いていたら説得力がない。
 だが急に持ち出したのは何故だろう。今は別に年末年始や仕事の期の始めではない。あえていうなら、年後半の初日というところか。タイミングを問われたエルオーネは、腰に手を当て、私に対してよくする呆れ顔だ。

「誕生日でしょ!」
「私の? まだ先だよ」
「六日後よね、だから、その前後を含んだ七日間。休みだって言ってもどうせのんびりしないでしょうから、日替わりで誰かが付き添うからね。今日は私」

 監視付きの休暇なんて聞いたことがない。そもそも私は言われるほど仕事熱心ではないし、無趣味でもない。自己を犠牲にしてまでこの国に尽くしてはいない。思いがけず休暇が手に入ったのなら、やりたいことだっていくらかある。たとえば、

「映画観に行こ。それから新しいワンピースを買って、アイスクリームを食べるの」
「それは私の休暇というより、君の休暇なのでは?」
「でも、観たいでしょ? 映画」

 まあ、そうとも言う。つい最近封切りされたある映画は、今時珍しく捻りのない王道の大作恋愛映画ということで、かえってその清々しさに興味を引かれていた。わざわざ休みを取って映画館に行くほどではなくとも、何かのついでに近くまで行ったなら立ち寄りたいくらいには。
 エスタシティにも映画館はあるが、各席ボックスで仕切られた、VRスクリーンでの上映だ。隣席の人と同じ映画を観ているというわけではなく、客席での一体感は持てない。上映前のざわめきや期待感。ポップコーンを食べる手は途中で止まり、半分以上残ったソーダは氷が溶けて生温い。エンドロールの後、劇場からぞろぞろと外に向かう列に並ぶ間、同伴者と語り合いたい逸る気持ちを抑えていること。あれらのすべてが映画の魅力で、ガルバディアにいたころに馴染みがあったからこそ、機能的すぎるエスタシティの映画館には足を運ぶ気にはなれなかった。
 エスタ育ちではないエルオーネもまた、シティでの生活に順応しながらも、時折その外の世界に触れたがった。だから映画に行くと誘われたなら、それは彼女の気に入りの、トラビアとの境界の小さな町が目的地なのだった。
 カウンターの前でチケットを買おうとする私の手を、エルオーネの手が止めた。

「キロさんはお財布出しちゃだめ」
「年下に払わせるわけには」
「そういうの、関係ないの。誕生日でしょ? 私だって映画くらい奢れるんだから」

 彼女は半年ほど前から研究所の手伝いをしている。なんと、あのオダインの助手として働いているのだ。ラグナは最後まで渋ったが、研究対象としてではなくあくまで助手という立場を守ることを条件に許した。その能力から、彼女が記憶や精神の分野に対する興味を抱くのは必然でもあった。研究者でないエルオーネがノウハウを手に入れるためには、多少頭のネジが外れていても、一流の研究者のそばにいることが近道なのだ。

「オダインおじさん、気前が良いんだよ。ちょっと残業するだけで、びっくりするようなお賃金くれるの」
「気前が良いというより、金に執着がないんだよ」
「ケチよりずっといいじゃない。キロさん、何飲む? コーヒー?」
「いや、レモンソーダにする」
「へえ、珍しい!」
「映画のときは炭酸が飲みたくなるんだ」
「あ、わかる! ポップコーンとセットだよね」

 バターのたっぷりかかったポップコーンのカップと飲み物を抱え、私たちは客席へと向かった。そして案の定ソーダの氷は溶け、ポップコーンはいくらも減らないままエンドロールを観終えた。根が単純なので素直に感動して涙ぐむ私に対し、夢見がちの正反対を行くエルオーネは退屈だった様子で、お涙頂戴の展開に辛辣な評価を下していた。
 それから商店街を歩き、エルオーネは悩んだ末にスカートを一着買い、しばしの押し問答を経て、私も自分の財布で靴を買った。贈り物にしてもらうには気楽に選んだものだし、誕生日祝いなら、十分すぎるものをもういただいている。
 ストロベリーチーズのジェラートと、メロンのシャーベットをワゴンで買い、ぶらぶらと歩きながらそれを食べることにした。はじめのうちは味の感想をきゃっきゃと話していたのに、エルオーネの言葉はだんだん途切れてゆき、しまいには黙り込んでしまう。
 隣にうつむく睫毛を見下ろし、さりげなく聞こえるように尋ねた。

「何か私に話があるんじゃないかい」

 そうなの、に続いてまた沈黙だ。もう一度促してやっと、答えが返ってきた。

「彼に会ってくれない?」
「彼?」
「付き合ってる人」

 そう大きなリアクションを取るほうではない私でも、さすがにこれには驚いた。エルオーネは気まずそうな表情だ。

「いつから?」
「二ヶ月くらい前。仕事で会って、なんとなく」
「そういうのは、ラグナに頼むべきじゃないかな。後で知ったら怒るよ」
「だっておじちゃん殴るもん。後で知らなくても怒るよ」

 それはあり得る。息子が彼女を連れてきたなら、たいへんに喜んではしゃいで、食事の席に招き、「まだいいだろ!」なんて引き留めて、べろべろになるまで酔っ払うだろう。だがそれが娘のほうなら、彼氏を連れてきただけで激怒して、問答無用で殴りかねない。

「会って何をしろって?」
「こいつはいい男だって認めてくれればいいの」
「私だって殴るかも」
「そのときはそのとき」

 彼女は気性の強いひとだから、本当に心に決めたのなら、誰が何を言おうと貫くはずだ。そうせずに頼ってきたということは、心ならずも不安があるのではないか。
 不義理な私において、幼いころを知っている子どもはごく僅かだ。彼女に思い入れるのは決してラグナだけじゃない。
 せめてその顔を見て、話をして、じっくり吟味してやろう。その結果殴るかもしれないし、ラグナに執り成すことになるかもしれない。どちらでもいい、誰かのお願いを聞くのは、とても気持ちの良いものだ。それが幸せに繋がることならなおさら。
 十日ほど経って、結果的に私は彼女のカレシとやらを殴ることになるのだが、まあ……その話はおいおい。

つづく