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0.ラグナと

 

※キロラグ

 息苦しさで目が覚めた。なんてことない、顔の上にもふもふしたものが被さっている。猫の中でも大型の種にあたる飼い猫が、眠っているときに限って寄って来て、何故か顔に乗ってくるのだった。そう、眠っていると……
 はたと覚醒して、ベッドサイドの時計に目をやる。うっかりしていた、ちゃんと起きているつもりだったのに!

「おい、起きろ! はやく!」
「ん……まだ、夜だよ……」
「夜だからだよ!」

 こいつは本当にオレの前だとよく寝る。眠りの浅いオレからすると羨ましいくらいだ。これでいて昔は、神経を張り詰め生死の境を生き抜いた特殊部隊の出身だという。人というのはわからないものだ。
 むにゃむにゃと寝返りを打とうとする体を揺すり、ひっぱり上げて起こした。すかさず猫が膝の上に乗り、前足で踏みふみして居場所を確かめている。オレの手に餌やおやつがあるとかでなければ、彼女は百パーセントこいつの膝を優先するのだった。

「ペルル……爪を引っかけないでくれ……痛いよ」
「ペルル……じゃなくて、オレを見ろ!」
「いったい、何の騒ぎだい」
「あのなあ、おまえ」

 いざ口にしようとすると、なんとなく照れてしまって、わざわざ居住まいを正して言った。

「お、ぁ……そ、その、お、お誕生日、おめでつ……イテッ……おめでとうございます!」
「ああ……これはご丁寧に、ありがとうございます」

 向き合ってぺこぺこ頭を下げて、むずむずしてくる恥ずかしさだ。膝の上の白猫は、呆れたとでも言わんばかりの眼差しで、じっとりとオレを見上げている。
 もうこれ以上は畏まっていられない。照れくささを振り払うように足を崩し、胡座をかいて、ずっと会話が続いてきていたみたいにさり気なく呼びかけた。

「で、キロちゃんは、おいくつになられたの」
「その呼びかた、出会ったころに良くされたな」
「だっておまえピチピチでちょう若くて、キロちゃん、って感じだったんだもん。ハタチだっけ?」
「二十歳だった。今日で四十四になる」
「あー、オレたちも年食ったよなぁ」

 皺も白髪も増えたし、指先はカサカサで本を捲るのに難儀するし、なんにもしていないのにあちこち痛いし、ちょっと走ると息が切れる。気持ちの上では二十歳、なんてふざけるのも憚られるほど、毎日がへろへろだ。
 だがこいつは、たいして変わらない年なのに、肌はまあまあピンとしているし、皺もあまり目立たないし、体質なのか白髪はほとんどない。腰痛や関節痛はあまり感じないのだそうだ。これはまあ、運動量や体重のせいなのかもしれないけど。
 一緒に歩いていると、とても四歳差には見られない。悔しくもあり、誇らしくもある。こんな良い男が、オレに夢中なんだぞって……いいや、ちがう。いつも不安だった。不安だから、こいつは自分の持ち物じゃないんだと思おうとしていた。

「……あのさ、オレ……初めて会ったとき、おまえを安全じゃないって思ったんだ」
「暴力的になりそうという意味で?」
「そういうんじゃねえよ。ただ、いつかおまえとヤッちまうんじゃないかって」
「それは……反応に困るな」
「でも、そうだったろ。清く正しくなんて、一年くらいしかもたなかった」
「……私に不純な想いがあったからだな、すまない」
「ちがう。オレは」

 こんな話をするつもりはなかったから、うまく言葉が出てこない。薄暗い寝室で、表情もよく見えない。でもちゃんと顔を見ていたくて、手を伸ばしてライトを灯した。やわらかなオレンジの光は、心細そうな、オレよりすこし後を歩く男のひとみを照らしている。

「おまえを好きになるなんて思ってなかった。一番になんかするつもりなかったんだ。だけど思い返せば、オレはずっと執着してた。自分は他の誰かに夢中なのに、おまえがどっか行こうとするとムカついた。オレの知らない休暇にざわざわしたし、おまえが誰かと出かけたって聞くと、そいつにやさしくできなかった。でもオレがこんなにむしゃくしゃしてんのに、おまえは一度だってオレに望んでくれなかった。だから好きになるなんて冗談じゃなかった、どう考えたって、オレのほうが割に合わない」
「そばにいて、あんたを見ていられれば良かったんだ」
「そんなの、残酷だ。オレばっかり求めておまえが身を引くんじゃ、いつまで経っても釣り合わないだろ」

 所在なさげに猫の背を撫でる手を、向かいから掴んで引き寄せる。

「今もそうなのか? オレがよそ見したら、オレを手放そうと思ってる?」
「どんなときも、あんたが幸せであれと思うよ」
「おまえ」

 恨み言をぶつけようとして、しっ、と息の音で遮られた。光と影の入り混じったその顔は、とても穏やかで安らいでいる。

「でももし、私の望みの届く余地があるなら、あんたの手をこうして……掴んでいたい」

 骨ばったオレの手を解き、その上からすらりとした大きな手を重ねる。ここにいてくれと伝えるにはあまりにやさしすぎる言葉だけれど、こいつがはじめて、オレとの境界を滲ませた瞬間だった。オレの側に、躊躇いながら、そっと踏み入れた。それがうれしい。
 本当は物足りない。もっと求めてほしい、あんたが必要だと縋ってほしい。今それを望んだところで、実感を伴わないただのセリフになってしまう。ならば来年、そしてその次も。少しずつ近づいて、いつかオレたちを分けているものがすべて混じり合ってしまえばいい。
 ほのかな良い気持ちだ、とことん甘えたい気もする。膝を枕に凭れてみたら、先客に唸られ叱られてしまった。けらけら笑って、やわらかい大きな毛玉を抱き寄せる。嫌がられても構わない。そんなオレごと抱きしめる腕がある、どうせ逃げられないのだ。
 二度と離したくないと思われたい。オレはおまえのものじゃないけれど、おまえのものだという夢を、ほんの一瞬でも見ていたい。今はまだアンバランスでも、確かな想いがここにある。おまえもそうだといいのに。

つづく