0706 - 4/8

2.モブと

 

 日が落ちたころに迎えに行きますと、前もって連絡があった。今日はエスタの休日で、官邸も含め役所関係や企業の大半は休業日としている。エスタはサービス業の多くがオートメーション化されているので、休日に働く人間は他国に比べて非常に少ないはずだ。
 政治の中枢である官邸執務室はいつも仕事に追われていて、対外的には休業としていても、実質は誰かしらが詰めている。私たちはそれぞれ休みをずらして取ったり、お互い仕事を肩代わりし合ったりして、正規の休日を取得していた。そんな状況だから、気づけば毎年、有給を無駄に捨てる羽目になっていたのだ。
 何が言いたいかと言うと、私が休んでいるぶんラグナやウォードは働いているということと(ウォードは二日酔いで参っているだろうが)、私の部下たちの多くは、今日のぶんの仕事を昨日までに済ませて、規定の通りの休業日を手に入れたということだった。
 連れて行かれた屋上のスペースには、丸テーブルがいくつか持ち込まれ、ムードを重視したと思われる極めてエスタ的とは言い難いランタンと、乾杯のためのスパークリングワインと、片手で食べられるような軽食が並べられていた。仲間内の小さなパーティーという趣だ。

「私たちだって、誕生日のお祝いをしたいんですよ」

 年嵩の女性事務官が代表して言った。今日ならば、みんなで休みを合わせられる。有給取得とカウントダウンを混ぜ合わせた企画をエルオーネが提案したとき、みなで休日の枠がほしいと願い出たのだそうだ。ありがたいことだった。
 その場に集まっていたのは、現在の部下の事務官たちが五名ほどと、国を閉じていた時代に国外の巡視に同行した兵士数名、また宇宙開発技術者が数名だった。
 エスタに来てからの私の時代、ひとつひとつに関わり合いのある人たちだ。その中でも兵士たちは、ただ巡視をともにしただけではなかった。沈黙の裏に、鈍い色した秘密を共有している。
 昨日ウォードと話してから、柄にもなく感傷的になっていた。あのころのことを思い出すことは、もうあまりない。忘れたわけではないが、底のほうに澱のように沈んでいる。
 私にとって、それは特別なことではなかった。ラグナやウォードと出会う前、暗殺が主任務のひとつである部隊にいたからだ。かつての記憶が泡沫の如く浮かび上がって来るのは、おそらく死の間際ではないかと思う。人の怨みの群がる私は、きっとろくな死にかたをしないだろうから。
 内乱がいくらか落ち着いたのち、三年ほど、ルナベースで暮らした。当時は電波障害のために宇宙との交信が上手く行かず、ベースでのトラブルに対処するのが難しかった。地上からの指示が正確に伝わらず、曲解して暴走するチームもあった。そこで、ラグナの方針を正しく理解する誰かを、ベースに派遣する必要が生まれたのだ。
 ラグナは自分が行くと言った。だが、まだ安全な打ち上げ技術の確立されていなかった時期に、大統領の身を危険に晒すわけにはいかない。次に、ウォードが行くと言った。今思えば、私に対する後ろめたさを抱いていたのだろう。それは駄目だ、彼は子どもが生まれたばかりだった。父親が長らく子どものそばを離れることなどあってはならない……それについてはラグナも強く同意していた。サインのこともある。そのころ、彼のハンドサインを読み取れる人間はごく僅かだった。
 私はまったくの身軽だった。もしかすると、逃げたのかもしれない。さまざまなことが私をがんじがらめにしていた。血の匂いや憎悪といった、負の要素だけではない。友情や愛情は、とても尊いものでありながら、そのときには足を留める重い杭のようにさえ感じられた。
 ……昔の話だ。過ぎてしまえば思い出しもしなかった、遠く離れた時代のこと。

「ほら、今夜はベースがよく見えますよ」

 引退した老年の技術者が、皺の刻まれた指で、一点の光を指差した。月の涙に巻き込まれ一度は放棄されそうになった宇宙基地は、その後月の監視施設として再運用されることが決まり、現在は部品を打ち上げて修復をしている最中だった。通信も復活した今、以前ほど困難な作業にはならないだろう。
 時に怪しく光る月には、未だ魔物の脅威が蔓延っている。しかし遥かに眺める限りでは、神秘的な力を持つ、うつくしい衛星にしか見えない。そしてベースの光もまた、ひとつの星のよう。
 もう二度と手を伸ばさない。すべてを受け止め、受け入れる。今ならそれを幸せだと思える。
 指先の光を見上げ、唇だけでささやいた。さよなら、弱い私の、最後の逃げ場所。

つづく