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3.ウォードと

 

※ウォードは既婚者設定

 部屋にいれば誰かが訪ねてくるだろうと思っていたので、朝食の後、一昨日買ってきたばかりの文庫本を開き、もう少し、もう少しと熱中して読み進めていた。エッセイの類より物語のほうが好きだ。私は決して活字中毒でも本の虫でもない。気になった本をたまに手に取る、データよりは紙の本のほうが好きだと思う程度の読書好きだった。趣味とも言えないだろう。読んだ本の内容をよく忘れるので、普段は新しい本を仕入れるより、手持ちの本を何度も読み直すことのほうが多かった。
 訪ね人があったのは、昼を回ったころだ。空腹を覚えてはいるが、何か口にするか迷っていた。昨日や一昨日のように、場合によっては誰かと食事をすることになるかもしれないからだ。
 勝手知ったるという様子で部屋に入ってきたウォードの手には、ワイン、ウィスキー、ブランデー……とにかく手当たり次第にそのへんのものを掴んできたとでもいうような、節操のないラインナップが収まっている。私はほとほと呆れ果てて言った。

「昼間っから?」
『たまにはいいだろ』

 瓶をごちゃりとテーブルの上に置き、サインで返してくる。

「二日続けて食べ過ぎてる。今日は外に走りに行きたい気分なんだ」
『何が悲しくて誕生祝いに走らなくちゃならないんだ、冗談じゃない』
「今日は私の誕生日に付随する休暇だと記憶していたんだが?」
『まあまあ、細かいことは気にするな。座れよ』

 我が物顔で言うけれど、ここは私の部屋だし、どちらかというといつも細かいことを気にするのはウォードのほうだ。ジンクスを大事にしていて、旅の途中、靴紐が切れたからもう歩きたくないと困らされたこともある。仕方なく近くの町で一泊したら、キャンセルした電車で事故が起こり、難を逃れたのだった。
 嬉々として飲む順番を吟味しているようだが、つまみは何も持ってこなかったらしい。私は自分の食べるものを積極的に世話するタイプではないから、冷蔵庫を開けてもろくなものが入っていなかった。いつからあるのかわからないチーズを取り出してナイフで切り分け、気まぐれで買って未開封のまま忘れていたイチジクとグリーンレーズンを引っ張り出す。よかった、クラッカーが残っていた。ウォードは甘党で、チョコレートをつまみに酒が飲める。部下にもらったそれも添えて出してやることにした。
 あとはアイスペールとグラスを揃えれば、それなりに格好のつくかたちになった。食事もせずにアルコールを入れてはあっという間に酔いが回りそうだが、気を遣う飲み会ではないからいいだろう。
 だが覚悟はしていた。私たちが二人で差し向かって飲む機会はほとんどなく、いつもならラグナがひたすら喋り続けるために、ウォードの《これ》もさほど酷くはならない。今は歯止めをかけるものがないせいで、ずっと彼の独壇場だ。

『ほんっとうに、かわいくてなぁ……今朝なんて、母親の用意したコーディネートじゃイヤだと言って、靴下をぜんぶ引っ張り出してきて……』

 早々に酔っ払っているせいで、サインはかなり適当だ。表情もとろんとしたニヤけ顔でしまりがない。目を細めてじっと見つめ、その意を汲み取ることに集中しなければならなかった。まったく本当に、誰のための誕生日休暇だ。これでは私のほうが接待しているみたいじゃないか。
 ただ、ウォードのデレデレした顔や、同じことを繰り返してばかりの自慢話は嫌いではなかった。彼には、エスタに来てまもなく知り合って結婚した伴侶との間に、女、女、男、女と、四人の子どもたちがいる。特に年の離れた末娘を彼は溺愛していて、いつでもその愛らしさを誰かに話したくて仕方がないのだ。
 ラグナはウォードの子どもたちを、行方知れずとなってしまったエルオーネを慈しむように可愛がると同時に、失ったものを思い出しては落ち込んでいた。私はずっと薄情だ。ガルバディアに住む妹のところには姪がいて、生まれたばかりのころは何度か顔を見に行ったものだが、エスタに来てからはもう二度と会うことはないだろうと諦めていた。
 だからといって、子どもが嫌いなわけではない。いとおしい気持ちも、守ってやりたい気持ちも併せ持っている。私もまたラグナと同じく、自分では持つことのない血の繋がった子の幻を重ね、彼の家族に尽くしたいと感じていた。ウォードは私たちの中で、一番《まっとうな》男だ。正しく優しい心を持っている。彼が光の当たる道を歩いていてくれて、たぶん、私もラグナもうれしかったのだ。
 一通り娘の話をし終えたウォードは、大きな両手でグラスを包み込み、思いつめた表情で黙り込んでしまった。幸せな話にとことん付き合うつもりでいたのに、一体どうしたことか。

「なんだい、しみったれた顔をして。まだ話し足りないだろう」
『…………』
「気分でも悪いのか? 吐くなら早めに言ってくれ」
『違う、おまえに……』

 少し間を置いてから、彼の手が、『謝りたい』と告げた。

「なんのことだかわからないんだが」
『ラグナが今の位置に就いた後のことだ。おまえは一人で……俺たちのぶんまで……』
「なんで今そんな話を……別に、私が一番向いていたというだけだよ。あんたたちは戦争の仕方は知っていても、暗殺の仕方は知らなかった」

 外から来たラグナが革命の英雄としてエスタの初代大統領に据えられたことで、アデルの恐怖政治に疲れていたこの国は概ね落ち着いたが、同時に混乱も起きた。議論の上での対立ならばまだしも、テロを起こす者、魔女の封印を解こうとする者、アデルの後継者をでっち上げて権利を主張する者などの手により、多くのトラブルが生み出されたのだ。ラグナはそのうちの大半を対話で味方に引き入れたが、衝突を避けられないケースもあった。命を脅かされるほどの……つまり、どうしても汚れ仕事が必要だった。

『だが』
「よく政治家が罪を逃れるために言う、部下がやったという言葉。私はある程度、あれも必要だと思っているんだよ。為政者に必要なのは決断であって、自分の手を汚すことじゃない。排除するという決断には思想も理想もあるが、排除するという行為はただの殺人だからだ」
『俺たちは戦争に行った』
「そうだよ、そこで敵を殺すこともあった。そのときは誰も為政者じゃなかった。ラグナの立場は変わった。あんたも家族を持った。私は変わらない、だから私で良かったんだ」
『俺にだってその覚悟はあったんだ』
「あんたに覚悟があったって、私のほうが嫌だよ。私たちはちゃんとバランスが取れているんだ。あんたには、私もラグナも出来なかったことをしてもらわないと」

 彼が家族を持ったとき、とても気持ちが晴れやかだった。幸せを共有できた気がした。
 ウォードは、同じ立場で同じだけ罪を負わねばならないと思っているようだが、そんなものは不合理だ。誰かが幸せを掴まねば、幸せとは何なのか誰もわからなくなる。ニヤけ顔で、子どもたちの自慢を垂れ流すことを、私が経験することはないけれど、そうしたくなる愛情があることを知っている。彼が教えてくれたからだ。

「ほら、泣くんじゃない。あんた、酔ってるんだよ」
『ううう……俺は、おまえに申し訳なくて……ずっと言おうと思っていて……』
「実はもうすぐ私の誕生日なんだがね。祝う気持ちがあるなら、こんな話より、あんたの家族の話を聞きたいね。さっきと同じ話でもいいよ、何度だって」

 酔ったウォードは泣き上戸で、絡み酒のラグナと合わさると手がつけられなくなる。私は特別酒に強いわけではないけれど、飲み過ぎてもただ気分が悪くなるくらいで、彼らのように賑やかにはならない。いつも会計をして、店に謝って、介抱をするのは私の役目だった。
 大きな体を縮ませてめそめそする彼の背中を擦り、まだ空になっていないグラスに酒を足してやった。飲めるだけ飲ませて、良い気分で眠らせてやろう。目が覚めたときには、罪悪感も憂鬱も、すべて過ぎ去っているといい。忘れられなくても、せめて遠くに。
 次第に仕草も鈍くなり、そろそろ沈没かというころになって、ウォードは眠りへの最後の抵抗か、なんとか読み取れるサインを寄越してきた。

「なんだって? 当日? 迷惑……かけたら、悪い? どういう意味だい?」
『たのしんで……くれ……』

 なんのことだと肩を揺すって問い詰めてみても、どうせ明瞭な答えは返ってこない。泥酔した巨躯をなんとか引きずり、ソファに放り投げた。少し眠らせて、頃合いを見て夫人にメッセージを送っておこう。
 さて……また《当日》というワードだ。おそらくそれは、三日後にやって来るだろう。果たして何が起きるやら、どうかお手柔らかに。

つづく