無声の絆

 ランプがなくとも世界の輪郭が浮かび上がるほどの月明かりだった。乾いた夜はとても鮮やかで、穏やかな中にも一種の喧騒のようなものがある。あの星々でさえ華やかな音を響かせているふうに見えるのに、自分には。
 ウォードは見上げた空から目をそらし、手元に視線を戻した。本を捲るときの紙の擦れがひどく大きく聞こえる。このように、どんな静寂も音を持つのだ。音には感情が宿り、共感を呼び、人と人とを繋げる。
 一緒にやっていく自信がない。それが別れの言葉だった。三年ほど付き合った恋人は、軍務のためにたくさんの時間は過ごせなかったけれど、ただ隣にいるだけで幸せを感じるような明るい人だった。何度か結婚の話も出た。そのたび彼女は軍を辞めてほしいと言い、自分は躊躇った。結果として退役することになったが、そのときには、心の距離は広がっていた。声なき繋がりに耐えられないほど。
 仕方のないことだ。負担を強いるのはこちらのほうで、その負担も先が見えない。たとえばいくらページを捲っても、声の代わりのハンドサインを覚えられない。休日には町まで出て講習会に参加してはいるものの、この年になって新しい表現方法を習得するのは容易ではなかった。覚えたところで、自分だけが使えても意味のないものだ。両親や兄は勉強すると言ってくれているけれど、それに依存しては世界が小さくなってしまう……いや、それでいいのか。そのほうが、多くの人たちに迷惑をかけずに済む。
 休憩時間になると収容所の屋上通路に出て、ひとりハンドサインの入門書を読むのは、同僚たちとのコミュニケーションが上手くとれないからだ。以前はそんなことはなかった。酒でも飲みながら話せば、誰にでも心を開けた。今は、持ち歩いている小さなボードにペンを走らせるたび、相手の心が離れるのを感じる。目を見つめて話ができない。人と話すのが好きだったウォードを、何より落ち込ませることだった。
 ちっとも身が入らないまま次回の講習の予習に入ろうとしたとき、年配の同僚が顔を出して名前を呼んできた。こんな面倒な自分にも気さくに仕事を教えてくれる、良い人だった。

「よう、おまえに客が来てるぜ。ロビーで待たせてる」

 ボードを取り出す前に、心得たように続きがあった。

「妙なカッコした色男だよ!」

 すぐにわかった。世界の孤独が一気に和らいで、一瞬にして、一年前の自分に戻った気がした。錯覚かもしれないけれど、そう思った。
 キロス・シーゲルは、ウォードのいたチームの最年少だった。九十三連隊という特殊部隊の出身で、いわば軍の精鋭でありながら、戦場で同僚と諍いを起こし降格、異動になった男だ。ウォードも同じような事情を持っていたから、初めて会ったときからなんとなく親近感を覚えていた。もちろん、経歴としてはあちらのほうが遥かに上だ。だがキロスはそれを鼻にかけることはしなかったし、時に年下として聞き分けよく、時にマイペースで自由に、先輩たちと接していた。ただの同僚に留まらない、親しい友人だった。
 急いで下階に降りてゆくと、キロスは壁に向いて佇み、この場にそぐわない洒落た色合いの掲示物を眺めていた。他に見るべきものがないからだろう。ウォードが来たのを気配で感じたのか、振り返りもせずに呟いた。

「看守や清掃員にも、サークル活動があるんだな。楽しそうだ」

 それからやっと友人の顔を見て、まるで昨日も会ったような気安さで笑った。

「やあ、順調かい? いろいろありそうだが、体の調子は悪くなさそうだな」

 最初の問いかけに返そうとボードをもたもた準備しているうちに、答えようとしていたことを先に言われてしまった。わかりやすいほうだという自覚はあるけれど、ここまで的確に見抜いてくるのはキロス以外にいなかった。
 目配せしてベンチに誘った。でかい男たちが二人並んで突っ立っていては、邪魔くさくて仕方がない。

「今日来たのは、あんたの様子を見に来たのと、ラグナを見つけたからだ」

 腰をおろしてまもなく、いつも飄々としている男にしては珍しく、僅かに興奮した面持ちで話しかけてきた。ラグナというのは、一年前から行方不明になっていたもう一人の同僚だ。チームのリーダーであり、友人でもあった。ウォードよりふたつほど年上だが、お喋りで落ち着きがなく、子どもみたいなところもある。キロスはことのほかこの男を気に入っていて、傷が癒えてすぐに、ふらりと探しに行ってしまったのだ。
 一年前の任務中、深い傷を負って、海に放り出された。ウォードとキロスは航海中の船に助けられたが、ラグナは見つからなかった。あの辺りは複雑な流れになっていて、一度沈んだものは見つからないとも言われている。ラグナは死んだかもしれない。病室で悲観的になるウォードに対し、キロスはそんな可能性など少しも考えていないようだった。
 そしてとうとう見つけ出した。執念であり、強い想いの結果だろう。ウォードはそこまで信じられなかった。それが生死のわからない友人への裏切りのように感じて、今でも罪悪感を引きずっている。

「ウィンヒルという村を知っているかい? ガ領の端の、花以外なにもない田舎だ。以前エスタの襲撃があったそうで、それから部隊が駐屯している。先日交代から帰った昔の仲間が教えてくれたんだよ。ティンバーに寄ってから迎えに行くつもりだ。あんたも来るかい?」

 行く、と即答できなかった。どちらかといえば、行かない理由を探していた。今の仕事を始めたばかりでここを離れられない。まだ体も本調子じゃない。ラグナと関われば、平穏とは程遠い毎日を過ごすことになって、家族を心配させるだろう。
 どれも本心とは言えない。本当は、ただ怖い。また何かを失うかもしれない。何かを失って、もっと役立たずになるかもしれない。人の世話になって、迷惑をかけて、誰かの人生の荷物になるかもしれない。
 ボードに触れたペン先が、ぴくりとも動かないまま、暗い点を描いている。前に進むことを恐れる自分を表しているようだと思った。
 キロスはそんな横顔をじっと見つめていたが、やがてため息のように言った。

「まあ、無理にとは言わないよ。二人だけでも、それなりに楽しくやれるだろう」
『…………』
「ただ、長くは続かない。あんたはよくわかってるはずだ。彼はどこかイカれているし、私も頭のネジが何本か外れている。そんな二人が一緒にいても、いずれ破滅するだけだ。崖に背を向けて踊り狂っているようなものだから。あんたがいたから、私たちはまっとうな道を外れずに済んだ。この胸の良心が」

 しなやかな長い指で、作業着のままの胸を突いて、

「いつでも私たちを繋ぎ止めていたんだ」
『…………』
「ウォード、あんたがいないと、私たちはチームにならなかった。時々は、そのことを思い出してほしいね」

 すぐには言葉を飲み込めなかった。とてもそうとは思えなかったからだ。いつも行き先を決めるのはラグナだった。自分もキロスも、彼に惹かれてついていった。毎日が楽しかったのは、ラグナがいたからだ。
 戸惑い、何も答えられない。そう言ってくれるのはうれしい。もし自分に何か役に立てることがあるのなら、一緒に行きたいと思う。だが今のままでは足を引っ張るだけだ。肝心なところで失敗して、二人を危険な目に遭わせてしまう。考えれば考えるほど気持ちは底に沈んでいく。
 情けなく縮こまっている、その膝の上をまたぐように手を伸ばして、ポケットに突っ込んでいた本を抜き取られた。キロスはそれをぱらぱらと捲ってから、膝にぽんと置いた。

「次に会うときまでに、同じものを買って勉強しておくよ」

 そんなことはしなくていいと書こうとして、ペンを持つ手ごと、そっと遮られた。

「大事な友人と話したいと願うことは、何も負担にならない。あんたが急に古代セントラ語を話すようになったって、私はそれを覚えるよ」

 そうしてキロスは立ち上がり、すらりとした手を腰に当てて言った。

「それじゃあ、もう行くけど、たぶんまた迎えにくる。今度はラグナと一緒に」
『…………』
「私たちにはあんたが必要だ。よく考えておいてくれ」

 手を振って去ってゆく背中を呼び止めたかった。くだらない会話で笑い合っていた、あの時間が懐かしかった。また三人で面白おかしく日々を過ごしたい。明日の不安より、昨日の後悔より、今日を楽しく生きたい。
 名を呼んでも、叫んでも、掠れた息が喉から漏れるだけ。もう伝えられない、伝えたい。
 両手でベンチを叩いた。思いのほか力が入って、通りかかったスタッフを怯えさせてしまった。涼しげな顔した友人は、そうなることを予期していたかのように、さりげなく足を止めた。

『来てくれて、ありがとう。うれしかった』

 振り返った相手に、覚えたばかりのたどたどしいハンドサインで言った。伝わるはずがなかった。
 しかしキロスは静かにうなずいて、「私も会えてうれしかったよ」と応え、行ってしまった。
 一人残され、しばし座ったまま、いろいろなことを考えていた。思考は雑然としていて、何かに集中しているわけではなかった。思い出もぽつぽつと辿った。どれもが光と音を、ぬくもりを持っていた。
 もうすぐ休憩時間が終わる。本をまたポケットにしまい、ボードを腰のポーチに入れた。喉の傷痕に触れ、失ったものを思った。音なき声は、本当に無声なのだろうか。強く願うことは、言葉ではないのか。
 まだわからない。決断の勇気もない。だがきっと、彼が未来を伴って再び訪れるとき、答えは出るだろう。そのときを待っている。今はただ、枯れた心に光を宿して。
  
  
おわり