姉ちゃんが帰ってこない。
そのメールの文面を見た時、全身が凍りついたように動かなくなった。とうとう恐れていたことが起きた。ありとあらゆる可能性が頭の中を駆け巡り、考えうる最悪の事態まで到達したところで、いても立ってもいられなくて走り出した。
駅前には、終バスに乗り遅れた人々がタクシー待ちの行列を作っている。いつもならそれを尻目に三十分の距離を歩いて帰る。だが今日はその群れに飛び込み、人々の非難の声や冷たい視線をものともせず、最前列の誰かを押しのけて、やってきたタクシーに滑り込んだ。
「お客さん、順番を守ってくださいよ」
タクシーの運転手が言うが、そんなことに構っていられない。
「良いから出してくれ、家族が大変なんだ」
その一言で、切迫した状況が伝わったのだろう。運転手はそれ以上は何も言わなかった。
アパートに着き階段を駆け上がると、その音を聞きつけて末っ子が飛び出してきた。泣きべそをかいている。久しぶりに見る顔だった。
「兄ちゃん!」
「セシルは? まだ帰らないのか? 携帯は?」
「繋がんない……電話もない……」
とりあえず家の中に入り荷物を置く。時計を見上げれば、二十三時半。深夜のバイトはさせていないし、学校の帰りにどこかに寄ったとしても、こんなに遅くなることはありえない。
部屋の中ではフリオニールが真っ青な顔してうろうろ歩き回っていて、兄が帰って来た事にも気づかない様子だった。
「……フリオニール、今帰った。少し落ち着け」
「落ち着いてなんかいられるか!」
おかえりの挨拶もなしに、鋭い声が返って来た。
「もう十二時になるんだぞ! 今までこんなことなかった、連絡もない!」
「聞いている。先生は?」
「姉ちゃんの行きそうなところを探しに行った。俺達は家で待ってろって……」
ティーダが答える。クラウドは頷いて言った。
「そうか。俺も探しに行ってくる。連絡が入るかもしれないから、お前達はここにいろ」
「……やっぱり俺も行く。家にはティーダがいれば大丈夫だろ」
「嫌だ! それならオレも探しに行く!」
きっとライトが二人を残した時も同じような言い合いがあったのだろう。どちらにしても高校生と中学生を出歩かせて良い時間ではないし、この二人にまで何かがあったら困る……いや、セシルに何かがあっていても困るのだが。
「駄目だ、お前達は残れ。もし連絡が入ったら携帯に電話をくれ。もしものことがあったら警察に電話しろ」
「兄さん! もしものことってなんだよ!」
掴み掛かってくるフリオニールの手を静かに外し、そっと肩を叩いてやる。
「大丈夫だ、何もない。念の為にというだけだ。ティーダを頼むぞ」
そうしてクラウドは家を飛び出した。
セシルの行動範囲は決して広くない。大学、近くのスーパー、バイト先……同年代の子のようにどこかに遊びに出掛けたり、買い物を楽しんだりすることもない。まずは一番近いスーパーまで行きその周りを探してみたが、喧嘩中の野良猫を見つけただけで人の姿はなかった。バイト先にも行ってみたけれど、シャッターの閉まった店の周りはやはりひっそりとしている。セシルから聞いている今日の予定は、授業が八限まで、バイトはなかったはずだ。
大学まではバスで通っている。この時間はもうバスはないから、もし大学から帰ってくるとしても歩くかタクシーを捉まえるしかない。どちらにせよ駅方面を経由するはずだ。もう一度家の辺りまで戻って、駅への道を辿ってみよう。
そう思って踵を返そうとした時、ふと、道の向こうの方に人影が見えた。男と女が大荷物を持って歩いている。こんな時間に一体なんだと、非常事態というのについ目を凝らして二人の顔を見たクラウドは、ずっと緊張しっぱなしだった体からへなへなと力が抜けていくのを感じた。
言うまでもない。ライト先生と、騒ぎの張本人だった。
無事で良かった……安堵から、たまらずその場にしゃがみ込む。向こうもこちらを見つけたようで、なにやらやり取りの後に駆け寄ってくる音が聞こえた。
「兄さん! 心配掛けてごめん」
兄の様子からことの重大さを覚ったのだろう、大荷物の陰から覗く顔はすっかりしょげ返っていた。
「怪我や具合の悪いところは……」
「どこもなんともないよ、無事」
「無事か……」
「うん……」
「……とりあえず、無事なら良い…先生も、すまなかった」
「当然のことをしたまでだ」
それにしても……セシル自身も大荷物を抱えているというのに、同じようにライトも両手に大きなビニール袋を二つ持っている。一体何を持ち帰ってきたと言うのだろう。
妹の手からいくつか荷物を受け取ってやりながら、その辺りを聞いてみた。すると、良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに、消沈していた顔がみるみる輝き始めた。
「それがね、今日いつものスーパーで買い物をしていたら、知り合いのおばさんが、隣町のスーパーで醤油と白ワインが破格の値段で安売りしてるって教えてくれたんだ。あとビールもすごく安かったよ。たまには兄さんも飲みたいかなと思って、奮発して買ってきちゃった」
「隣町まで……? 歩いて?」
「うん。それから、たまたま通りかかったドラッグストアに入ってみたら、トイレットペーパーがこっちで買うより十二ギルも安かったんだよ。明日までセールだっていうからシャンプーの詰め替えも買ってきたよ」
なるほど、ライトの両手に見えるのが醤油と酒類だ。妹が抱えているのがトイレットペーパーとシャンプーの詰め替えだろう。それでは今自分が受け取ったのは……?
クラウドの視線が抱える荷物に落ちると、セシルの目がきらきらと明るさを増した。
「それはね、皆のパンツだよ」
「は……? パ……」
「途中でウニクロのチラシが落ちてて、見たら今日まで男性用下着のまとめ買いが激安だって書いてあったんだ。兄さんとフリオニールとティーダと、先生の分も買ったんだよ。凄くあったかいんだって。あと兄さんと先生にはYシャツの替えも買ったよ。ティーダはすぐ靴下を駄目にするから新しいの三足も買っちゃった。フリオニールは寒がりだからセーターを二枚。たくさんお金使っちゃったな」
妹の勢いに気圧され、唖然としてライトを窺うと、この男にしては非常に珍しく困惑した顔をしていた。それもそうだろう、居候になっている家の娘に「あなたのあったかい下着を買いました」と言われても、どう反応を返したら良いのかわかるまい。
そんなことよりもっと気になることがある。
「……それでお前、自分の分は何も買わなかったのか?」
「お財布に七ギルしか残ってなかったし、必要なものはなかったから」
「そうか……」
「本当はちゃんと連絡しようと思ってたんだよ。だけど携帯の充電が切れちゃって……今日学校で充電させてもらわなかったから……公衆電話からも掛けるお金がなくて、結局電話出来なかったんだ。本当にごめんね」
怒る気力も失せたというより。
クラウドは心の底から思った…我が妹ながら、なんて不憫な。
「姉ちゃん、不憫だ……」
男三人台所で縮こまりながら、そっと様子を窺う。セシルは居間で、大量のシャツに片っ端からアイロンを掛けていた。
「二十歳にもなる女が、ウニクロとはいえ自分のものひとつ買わず……」
「醤油と白ワインとビールを一ダースとトイレットペーパーとシャンプー詰め替えと下着をいっぺんに抱えて……」
「隣町から歩いて帰って来ただなんて……」
「「あんまりだ……!」」
弟二人がわっと顔を覆って俯くのを見て、自分の方がよっぽど泣きたいわと長兄は思った。花の女子大生がこんなに所帯染みてしまったのは、いけないいけないと思いながら古女房扱いしてきた自分に責任があるのだ。
「もとがあんなに良いのに、姉ちゃん、おしゃれのひとつもしないし……今時ほとんどすっぴんの女子大生ってどうよ……」
「毎日ジーンズに五百円で買ったポロシャツ着て……この前百均のパンツのゴム入れ替えて履こうとしてる時は、ショック過ぎて思わず止めてくれって縋っちゃったよ……」
「バッグも履けなくなったズボンばらして自分で作ってんだぜ……それも破れても何度も繕ってさ……」
「俺は……」
じっと聞いていたクラウドが口を挟んだので、弟二人は泣きそうな顔を上げて兄を見る。クラウドの眉間にはお決まりの皺が寄り、悲壮感漂う男の顔をしていた。
「将来を考える男の一人もいないのかと聞いたら……一生皆のお世話をするからいいんだと言われた……」
「ね……姉さん……」
「可哀相過ぎる……」
居間のセシルは、皺が綺麗に取れたシャツを嬉しそうに掲げていた。それを見た男三人は、いっそう悲しくなって肩を落とした。
「……やっぱ姉ちゃんこのままじゃまずいよ。オレたちの世話なんかしてたら一生結婚も出来ないって」
小声で言って、ティーダは更に「前から思ってたんだけど…」と続ける。
「ライト先生とかどうよ。頭は良いし顔も良いし真面目だし、男としても最高の部類に」
「先生は駄目だ」
フリオニールが鋭く割り込んだ。無意識に口をついて出たらしく、言った本人でさえ驚いたようだったが、すぐに難しい顔に戻った。
「ライト先生は良い人だけど、記憶がないだろう? ということは記憶が戻ったら帰るべき場所に帰ってしまうかもしれないじゃないか。そんな不確かな人は駄目だ」
「まあ、もしかしたら妻子持ちとかそういうオチもあるもんな。それじゃあ……あ、あの人なんかどう? 姉ちゃんの行ってた高校の新任教師、確か…セオ、セオなんとかいう先生。姉ちゃん凄い懐いてたし、あっちも満更じゃ」
「卒業したとはいえ先生と生徒と言う関係が不純だ。それに年が離れてる」
「う……じゃあ、なんて言ったっけ……冬季オリンピックでなんか選手に選ばれた、幼馴染の。顔も良いし、なんか人も悪くなさそう」
「スポーツ選手はなんだか軽い感じがする。すぐ捨てられそうだから駄目だ」
「な……なんだよ、さっきから駄目駄目言ってばっかりでさ! じゃあどんなやつなら良いのか言ってみろって!」
さすがのティーダも兄の駄目攻勢には参ったらしく、機嫌を損ねたように突っぱねて言う。フリオニールは言葉に詰まって押し黙っている。答えられるはずがない、クラウドは思った。どんな完璧なやつが来たって、フリオニールの目には欠点ばかりが映るはずだから。
その辺りの微妙な兄弟間の感情は末っ子のティーダにはまだ理解しがたいだろうし、逆に、いつも家にいないとはいえ長男だからこそ一番良く見えることもある。助け舟を出してやった方が良いかもしれない……しかしなんと言って切り出そうかと考え付く前に、タイミング悪くセシルが洗濯籠を持ってこちらに入ってきてしまった。しまった、自分としたことが、弟達に気を取られて張本人への注意を怠るとは。
「なに? 皆して、なんの話? もしかしてフリオニールの好きな女の子のタイプ?」
タイミングも悪かったが、勘違いの方向も良くなかった。
「……なんでもない、姉さんには関係ない!」
燻っていたものが爆発したのか、フリオニールは勢い良く立ち上がり、収まりがつかずに家から飛び出して行ってしまった。文字通り電光石火の如く、フォローのひとつ挟む暇もない。
ティーダはわけがわからずぶつぶつ文句を言っているし、セシルはセシルで、自分の言葉が打ってはいけない決定打だったことに気づいてうろたえている。
残されたクラウドは、三人の妹弟をどれから宥めていこうかと気が重くなりながら、改めて、俺が悪かったと心の内で呟いたのだった。
その日は祝日で、珍しくクラウドも家にいた。せっかくの休みなのだからもっと寝ていても誰も文句を言わないだろうが、家の中が動き出していれば嫌でも目が覚めてしまうし、今日は特別に気になることがあって、まだ夜も明けないうちからつい起き出してしまったのだ。
居間が見える席に座って新聞を読むクラウドの前には、フリオニールが座っている。何をしているわけではない。ただ座って、手元にある小物をいじっては放り投げ、いじっては放り投げを繰り返している。だが彼もクラウドと同じく、耳をそばだてて会話を聞いているはずだった。
「なあ、姉ちゃん…ほんとに行かないつもりなのかよ?」
仕切りのところからおずおずと覗くようにして、ティーダが何度も同じ問いを投げかけている。いつかのように居間でアイロンがけに勤しむセシルは、同じ問いに同じ答えを返した。
「行かないよ。成人式なんて、行かなくちゃいけないわけじゃないんだし」
「でも、一生に一度のことだろ? 絶対後で後悔するぞ」
「そんなことしないよ。それに、ちょうど駅前のパン屋で食パンが焼き上がる時間なんだよ。人気だからすぐに売り切れちゃうんだ、早くから並ばなきゃ」
「パンなんかどうだっていいだろ!」
「良くないよ。だってスーパーで買うよりずっと安いんだから。良心的だよね、あのパン屋さん」
お金の絡んだ姉を動かすのが難しいことは、ティーダも良く了承している。セシルが苦心して毎回手に入れている食パンの大半が自分の腹に消えていることを思うと、諦めろと言っても説得力がなかろう。
仕方なくティーダは攻め方を変えた。
「じゃあ、パン屋にはオレが並ぶからさ」
「駄目だよ、今日はお昼からクラブの練習があるでしょ」
「じゃあ、フリ兄に頼もうよ」
「駄目だよ、今日はせっかく先生がいらっしゃるから、フリオニールはジドール語を見てもらう約束になってるんだから」
そのライト先生は、今はセシルの手伝いでアイロン掛けの終わったシーツを畳んだり、シャツをハンガーに掛けたりと黙々と働いている。いつだったか、やはりセシルの言いつけでスーツのまま風呂掃除をやらされている時もあった。それを見ると兄弟はどうにも申し訳なく思うが、本人は文句ひとつ言うことなく、進んで役目を受けている。働かざるもの食うべからず、いや、住むべからず、だ。
ティーダは必死に姉を動かそうと、あれやこれやと代わりの案を出してくるのだが、セシルはどれも受け流してしまう。ティーダには何故そんなに姉が頑固に拒むのかわからないだろう。だがクラウドにはなんとなく、セシルがそうやって理由をつけて諦めようとしているように見えるのだった。
その証拠に、何度目かに「行かないよ」と言った後、セシルは手を止めてぽつりと言った。
「それに、着ていくものがないし……」
ティーダも、フリオニールも、もちろんライト先生にも聞こえただろう。これにはティーダも言い返せなかった。大学の入学式の日でさえ、セシルは黒いセーターに、黒いパンツで行った。スーツの一着も持っていないからだ。それに……たとえスーツを持っていたって、同い年の女の子がきらきら着飾っているのを見れば、それもむなしくなるだろう。セシルは着飾るものに興味を持たない。だからといって、着飾ることが嫌いなわけがない……若い女の子の多くがそうであるように。
「あ、ごめん。気にしないで。本当にいいんだよ。それより今日は皆一緒にご飯に出来るから、お鍋にでもしようか。ねえ、ティーダ」
「え、あ、うん……」
ティーダが助けを求めるように、振り返ってクラウドを見た。姉はこのままこの問題を流すつもりだ。
後悔しないと言っているが、本当にそうだろうか。毎年この時期に街中を着飾った年下の女の子達が歩くのを見て、それを諦めた日のことを思い出しはしないだろうか。日々の生活の中でふと、こぼれた水のように戻らない日のことを思い出し、切なくなることは本当にないのか。
もうとっくに広げているだけだった新聞を置き、クラウドは立ち上がった。弟達が彼の行方をじっと見守っている。彼は普段ライトが寝起きしている押入れを開け、下段に頭を突っ込んで奥の方を漁り始めた。
「兄さん、何か探しもの?」
セシルが聞くが、答えない。その代わりに彼が外に出て来た時、手には白い紙で包まれた薄く細長いものが抱えられていた。誰かがはっと息を呑んだ。
「兄ちゃん、それ、もしかして……」
「母さんの形見の振袖だ」
「そんなのがあるのに、何で今まで出してこなかったんだよ!」
「ティーダ、怒らないで。当然だよ、母さんの服はどれも全然着れないんだ。丈が全然違うから。だからせっかくの形見があっても、駄目」
彼らの母親は娘の為に幾許か服飾品を遺していったけれど、小柄だった母親に比べ、セシルは身長も高いし手足も長い。身につけられるのは限られたアクセサリだけで、まだ生活が貧しくなかった頃の母親の服をしばしば引っ張り出しては、セシルが溜息とともにこっそり眺めていることを兄弟は皆知っていた。
「いや……」
手の中の包みに視線を落として、クラウドは言う。
「寸法直しを頼んでおいた。丈の心配はいらない」
「なら尚更、なんで!」
「それは……」
続けられなかった。この包みを開けばティーダもわかるだろう。そっと床に置いて解いてゆくと、中から一着の着物が出てきた。
実は、兄弟は母がどのような家庭に生まれてどのように幼少時代を過ごしたか知らない。両親ともに語らなかったし、親戚付き合いもなかったからだ。だがこの着物を見れば、母が決して貧乏ではない……それもかなり裕福な家庭に生まれ育ったということが良くわかる。そこらに転がっているような品とは違う、見る者の目を引き、見る者を圧倒する、そんな着物だった。
しかしそれは着物だけの話。何故クラウドがこれをぎりぎりまで持ち出そうとしなかったのか、覗き込んだティーダも一目見て理解したようだった……似合わないのだ、色も、柄も。着物は長くもつものだし、母から子へと継がれてゆくことも多い。だが、誰でも同じものが似合うわけではない。
なるほど、記憶の母には良く似合っただろう。薄い金色の髪、華奢な体。だがセシルは違いすぎる。それなら母の形見にこだわらず、一度で良いから良く似合うものを着せてやりたかった。
だからクラウドは、どこで調べるのかあちこちの店からの案内状が届き始める頃、何度も妹に話を持ちかけた。買い取りすることは出来ないが、レンタルするぐらいの金は用意出来ると。当然妹はいらないと断ったが、何度もしつこく繰り返すうち、高価なものでなければと次第に心動かされてきたようだった。
だがそれは立ち消えになってしまった。状況が変わったのだ。去年はとにかく金が出て行った年だった。クラウドが流行り風邪をこじらせた上に過労と診断されしばらく医者にかかったり、フリオニールの修学旅行で思わぬ追加徴収があったり、ティーダが選抜チームに選ばれて合宿に行ったり、風呂が壊れ、冷蔵庫に限界が来たりした。こつこつ貯めていた成人式用の貯金に手をつけねばやっていけない月が出てきた。セシルは躊躇わなかった。
そうして、巻き返しをすることもなく季節はやってきた。手元にあるのは始まりと同じ、母の着物が一枚だけ。じっと見つめるセシルも、それが自分の柄ではないと心得ているようだった。でも、言った。
「……着たいな」
すかさずティーダが反応した。
「着れば良いじゃん、着なよ!」
「似合わないと思うけど、母さんの服、着てみたい」
「似合わないなんて着てみなきゃわかんないだろ!」
「でも、美容院も着付けも予約してないし、自分じゃ着れないから……今日はやっぱり諦める。また皆で写真だけ撮ろう」
と、その時、今までずっと沈黙を保っていたライトが突然言った。
「必要なものは全部揃っているのか?」
「ああ……母のものが一式ある」
クラウドが答える。すると、
「なら問題ない。着付けなら私が出来る」
思いもしなかった言葉に、四人は揃って振り返る。フリオニールが何か言いたそうに口を開いたが、無言のまま閉じてしまった。
「先生……着付け、したことあるの?」
「した記憶は残っていないが、知識と感覚は残っているので経験があるのだろうと思う」
「間に合うかな」
「間に合わせよう」
セシルがふと、兄を見た。クラウドが頷いてやると、妹ははにかんで、
「先生、お願いします」
と、言った。
「フリオニールは……」
クラウドの声に、膨れっ面していたティーダがちらりと顔を上げた。フリオニールはここにいない。セシルとライトが襖の奥に閉じ篭ってしまうと我慢が出来なくなったのか、いつかのように家を飛び出して行ってしまった。ティーダはその態度に腹を立てているのだ。
「フリオニールの面倒をセシルは良く見た。俺はフリオニールとは学校も重ならなかったし、微妙に年が離れていたから甘えにくかったんだろう、その分、姉に懐いていた。何かあるといつも二人は手を繋いで傍にいた。幼い頃のフリオニールにとって、セシルは世界みたいなものだったんだ。だから、俺やお前とは少し、思い入れの度合いが違う。」
「……それはそうかもしれないけど、シスコンにもほどがあるだろ。ライト先生と二人っきりにするのが嫌だからって、出てかなくたって良いじゃん」
「多分、出て行ったのはそれが理由だからじゃないと思うが」
「どーいう意味?」
襖の開く音がして、二人は会話を中断した。母の着物を纏ったセシルの姿は確かに綺麗だった。道を歩いたら誰もが振り返って、着飾った女の子の中に混じっても一際目を引いて、皆が感嘆の溜息をつくぐらいには。でもいつも傍で見ているからこそ、二人は思った。これじゃない、もっと似合うものがあって、それを着たらもっと綺麗だ。着せてあげられたら良かったのに。
だけれど口に出さない。誰もがわかりきっている、小さなお芝居。
「きれーだよ、姉ちゃん!」
「良く似合っている」
「そう? ありがとう」
玄関のドアが音を立てて開いた。フリオニールが戸に手をかけて、息を落ち着けている。どこに行っていたんだ、などと問いただされる前に、彼はドアも閉めずに上がり込んで、姉に何かを差し出した。
「時間がなくて、ちゃんとしたのが用意出来なかったんだ。でも、棘は全部抜いたよ」
彼の手にはバラの花が一本あった。髪に挿せるように、テープでピンに止められている。
セシルは微笑んで言った。
「つけてくれる?」
躊躇いながら、弟は手を伸ばして姉の髪に花を挿した。白と黒しかなかった世界に鮮やかな絵の具が落ちてきて、髪飾りはあるべき場所に収まった。
「ありがとう、フリオニール。慣れないから転びそう。エスコートが欲しいな」
「じゃあ……会場まで、送るよ」
「お願い」
弟が手を差し伸べ、姉がその上に重ねる。幼い頃から続く同じ風景だ。フリオニールはいつもセシルの左手を掴んでいた。セシルの右手は兄の左手を握り締めた。しばらくして、クラウドの右手に一番小さな弟がぶらさがるようになった。
いつかは変わらなければならない。セシルも、自分達も。でももう少し――
「兄さん、右手が寂しいんだけど、どうしたら良いかな」
――でももう少し、同じ道を歩いていたって良いじゃないか。
振り返るセシルに、クラウドは言った。
「俺の左手を貸してやっても良いが。今度は俺の右手が寂しいな」
「勘弁してよ、姉ちゃんの成人式に兄弟全員同伴かよ」
呆れたようにティーダは言うが、逆らわなかった。兄の右手を取って、兄の調子をそっくり真似て、
「今度はオレの右手が寂しいなあ」
部屋の中に突っ立ったままのライトを招き寄せる。兄弟水入らずで、とかなんとか、珍しくライトは逡巡したが、押し切られるようにして手を繋いだ。
そうして五人は一緒に歩き出した。どこまでも歩いていけそうな気がした。
どこまでも。
:
:
姉ちゃんが帰ってこない。
メールを受け取ったクラウドは、ぞろぞろと並ぶタクシー待ちの列を無視して車に飛び乗り、「家族が大変なんだ」と運転手を急かした。
戻った深夜のアパートではフリオニールがうろうろ歩き回り、ティーダが半泣き状態で兄を出迎える。ライトは心当たりを探しに出ていていない。
クラウドは荷物を置きながら聞いた。
「連絡は?」
「ない……」
「スーパーの特売」
「半径十キロまで調べたけどやってない……」
「ドラッグストア」
「今は、必要なもんないよ……」
「ウニクロ」
「まとめ買いの日じゃない……」
見当がつかず、いつかのように二人を部屋に残して、クラウドは探しに出た。途中ライトとは会ったが、セシルを見つけることは出来なかった。弟二人は起きて待っていた。明日も学校なのだから少し寝た方が良いと言っても頑として聞かない。
兄弟は一睡もせず、暖房器具をつけるのも忘れて、じっと待っていた。時計の針は四時、五時を回り、鳥の声、車の音、少しずつ人々の生活が始まる。ライトが何度目かの捜索から帰ってきて首を振った。
警察に連絡しよう。クラウドがそう思った時、電話が鳴った。皆して飛び掛ろうとするのを制し、緊張した面持ちで受話器を取る。耳に当てると、懐かしささえ覚える声が聞こえてきた。
それからいくらか言葉を交わして受話器を置く。
「……今駅だそうだ。これから歩いて帰ってくる。」
クラウドが言うと、張り詰めていた糸が切れたように弟達は椅子に沈み込んだ。ライトが迎えに出て行く。まだ外は薄暗い、年頃の女が一人で歩くには少々物騒だ。
それからしばらくしてセシルは帰って来た。連絡を入れなかったことをしきりに詫びるが、怒る気力もない。
「……それで……今日はどこの特売だったんだ?」
兄の疲れ果てた問いに、妹はきょとんとして答える。
「特売? 違うよ、合コンだったんだ」
「ご……ご……合コン!?」
目が覚めた。
「数合わせの為に、タダで良いからお願いって言われちゃって。顔だけ出してすぐ戻ってくるつもりだったんだけど、凄く気が合っちゃった人がいて、気付いたら朝まで一緒にいて……」
「な、な、な……」
口をぱくぱくさせて声無き声を搾り出そうと頑張っていたクラウドだったが、やがて我に返り、テーブルに手を叩きつけて、活火山の如く猛烈な勢いで言った。
「そいつを家に連れて来い!」
「いいけど……」
冷静さを気取っているくせに、いざ噴火してしまうと止められなくなる。俺は認めんぞ、なんて怒り散らかしている兄のお陰で怒るタイミングを逃してしまった弟二人は、少し離れたところで、それこそ冷静にやりとりを見守っていた。
ティーダが言う。
「なあ……ちょっと思ったんだけどさあ……」
「ああ……」
「なんだかんだ言って、一番姉ちゃん離れ出来てないの、兄ちゃんなんじゃないの?」
「実は俺も、そう思ってたところだ」
……さて。
それからクラウドの噴火活動は、セシルが例の《凄く気が合っちゃった人》を家に連れてくるまで続いた。
「お招きありがとうございます、ティナ・ブランフォードです」
小柄な女の子が深々頭を下げるのを見て頭を抱えたクラウドは、自分の間抜けさにほとほと嫌気が差したという。だってよく考えても見ろ、合コンで初めて出会った男と朝まで一緒にいられる器用さがあるぐらいなら、今までだってとっくに男の一人や二人引っ掛けてる。
そして悩みは振り出しに戻った。
心配だ。我が妹ながら、あいつは本当に嫁に行けるのだろうか、と。
おわり