フリオニールの朝は早い。目覚ましの世話にもならずに起きて一番にすることは、炊飯器のスイッチを入れること。夜のうちに米は研いである。予約炊飯? そんな、勿体無い。夜通しコンセントを繋いでおくだなんて、冷蔵庫以外に許されるものか。
顔を洗ったり着替えたりと朝の諸事を済ませると、冷蔵庫から材料をそれぞれ取り出して、味噌汁と玉子焼きをたくさん作る。味噌汁はコンソメスープになる時もあるし、卵焼きではなく大量のホットケーキの時もある。あれば果物を剥いておく。
小さい調理台の上に弁当箱が五つ並べられる頃、仕事を終えた炊飯器の音をアラーム代わりに、兄がもぞもぞ起き出してくる。長兄はいつも弟二人が熟睡に入った後に帰って来て、一番最初に出て行くのだ。
「兄さん、おはよう。昨日も遅かったの?」
「ああ……日付は変わっていたな」
「いつもお疲れ様」
「お前もな。顔を洗ってくる」
少し慌しくなる。もしコンソメスープの日だったら、ここでパンを焼く。だが今日は味噌汁の日だ。兄が身支度を整えて仕事の準備をしている間に大急ぎで弁当箱にご飯を詰め、薬缶を火に掛け、昨日の晩御飯の残りを電子レンジに入れて、余ったご飯で作れるだけおにぎりを作った。そうして兄が準備万端で席に付く頃には、おにぎりと味噌汁とちょっとしたおかず、果物をお茶と一緒に出すことが出来るのだ。
兄が食事をしている間、弁当の詰め込み作業にかかる。晩御飯の残りものと、姉が漬けた自家製漬物(きゅうりとナス、プチトマトは、フリオニールがプランターで栽培している)、それから先程作った玉子焼き。最後にプチトマトを入れて完成だ。帰りの遅い兄や運動部の弟には、おにぎりを更に二個ずつ付ける。食事を終えた兄は自分でそれをアルミホイルに包み、弁当箱と一緒に袋に入れて出かけてゆく。
息つく暇はない。次の仕事は末っ子を起こすことだ。運動部の朝練は呆れるほど早くから始まるので、朝はゆっくりしていられない。
数分間の攻防、布団を剥いで奪い返されてを繰り返し、やっとのことで引っ張り起こして顔を洗いに行かせた後には、ここ最近増えた仕事が入る。
「ライト先生、おはようございます。ご飯が出来てます」
声を掛けるとすぐに応答があって押入れが開き、(この狭い空間でどのようにしているのか謎だが)既にきっちり身なりを整えて、ここに寝泊りしている居候が下りてくる。
伝説の家庭教師、チューター・オブ・ライト、本名不詳、まだいる。呼び名はライト先生ですっかり定着した。そして彼が押入れの中にいると言う状況もすっかり定着してしまった。年末年始の契約は終わっているが、いつの間にか彼がそこにいることが当たり前になってしまって、誰も出て行けと言わない。
「おはよう、フリオニール。いつも朝食をありがとう」
「昨日の晩御飯を温め直しただけですから。ティーダと一緒に食べちゃってください」
「それでは遠慮なくいただこう」
まだ寝ぼけ眼のくせに食欲だけは旺盛で、見事な食べっぷりを見せるティーダと、完膚なきまでに礼儀正しく箸を運ぶライト先生が並んで食事をしている。そのギャップが滑稽で面白い。本人達に言ったことはないが、そんな二人を見るのは朝の楽しみのひとつだ。
食べ終わると、「遅刻だー!」とか言いながら弁当箱を鷲づかみにして、髪の毛も跳ねたままの末っ子が家を飛び出してゆく。そしてそれを追うようにライト先生もいなくなる。日中どこで何をしているかは知らないが、律儀に弁当を持って出て綺麗に食べてくるのだ。たまに生活費だと言っていくらか兄に渡しているところを見れば、最近は謝礼はお金で支払ってもらっているのだろうか。どうやら本格的にここに住むことにしたらしい。
最初は渋い顔をしていた兄も、夜遅くまで危なっかしい兄弟三人にしておくよりは、誰か大人が一緒にいてくれる方が安心だと思い直したようだ。身元不明のライト先生がそこらの知人よりよっぽど信頼出来る人物であることは、一緒に生活してみればすぐにわかる。
さて、フリオニールはここでやっと少し落ち着き、最後に姉を起こしにかかる。
帰りの遅い兄を寝かしてからも、台所を片付けたり弁当の下準備をしたり、弟がしょっちゅう穴を開ける靴下を繕ったりと細々とした仕事があって、姉が床につくのは一番遅い。その上、朝が苦手だ。それが、フリオニールが皆の朝の世話をするようになった理由だった。
「姉さん、おはよう。皆もう行ったよ」
さすがに弟のように毛布上の攻防戦は起きないものの、姉の覚醒のスピードは遅い。その間に炊飯器のお釜を洗い、お茶を入れておく。するとちょうどふらふらと姉が起きだしてくるので、一緒に食事を取る。その頃にはおにぎりは売り切れ状態だが、起き掛けの姉はほとんど食べないのでちょうどいい。
「姉さん、今日はバイトの日? 俺が買い物行こうか?」
「きょう……は……バイト、ないから……授業、はやいし……あ、でも……特売……」
「じゃあ荷物持つよ。五時ごろ駅でいい?」
「うん……五時に……えき……」
そのような会話を交わすが、この状態の姉は言っていることの半分ぐらいは覚えていないので、あとでメールをしておくことにする。
食事が終わり、姉は洗濯物にかかる。台所の片付けまでがフリオニールの仕事だ。洗濯機を回している間に壮絶な癖っ毛に取り組むのだろうが、その辺りのことはよく知らない。フリオニールの方が先に家を出てしまうからだ。
「姉さん、後はよろしく、行ってきます!」
玄関の戸に手を掛けながら言うと、姉がわざわざ見送りに出てくれる。取り組み途中の頭は凄いことになっているが、それでもそんな風に見送られながら出掛ける朝が、フリオニールはとても好きなのだ。
学校に着いてからホームルームが始まるまで、まだやることがある。学校の庭の花壇に水を撒くのだ。これは本当は一年の決まった係の仕事なのだが、比較的忘れられる率が高い。花の世話が好きな生徒ばかりではないから仕方がなかろう。フリオニールにとっては、まったく苦にならない作業のひとつだ。
将来は花に関わる仕事をしたいと思っている。花屋ではなくて、作る方だ。ただでさえ学校では花壇ばっかりいじっている暗いやつと思われているから、世界中を花で満たして皆を幸せにしたいだなんて、とてもじゃないがクラスメイトには言えない。担任にも言っていないし、兄や弟にも言い出し兼ねている。家族は彼が決めたことなら反対しないだろうが、朝から晩まで働いて兄弟の面倒をみてくれている兄のことを思うと、花なんかを構っていていいのかという気持ちにもなるのだ。
こっそり姉にだけ打ち明けて相談したことがある。姉は具体的にどうしろとかそういうことは言わなかったが、ただ笑って一言、いいねと言った。その一言が、フリオニールの夢の支えだ。
花壇の世話は何も朝だけではない。朝は水撒きぐらいしか出来ないから、昼休みに花の調子を見て回る。必要があれば雑草を抜いたり肥料をやったりするし、時間が足りなければ放課後に回す。クラスメイトと話すより、こんな風に花を見ている方がずっと気が楽だ。テレビや流行の音楽の話も出来ないし、いつも馬鹿にされるから。
今日は買い物に行くので放課後はあまり世話をしてやれない。昼休みのうちに済ませてしまって、待ち合わせの時間までは図書館にでも行こう。そう決めてせっせと雑草を取っていたフリオニールは、腰を屈めたまま隣の花壇に手を伸ばそうとして、何か硬いものに思い切りぶつかった。
「いってーっ!」
声が上がって初めて誰かがいたことに気づく。慌てて辺りを見回せば、同じ制服を着た学生が転がっていた。
「す、すまない! 大丈夫か?」
「いきなり振り向くんだもんなー、びっくりしたぜ」
「いるのに気づかなくて……」
「ああ、多分そうだろうなと思った。いっつも真剣だもんな」
相手はズボンを払いながら立ち上がる。知っている顔だった。同じクラスになったことはないが、明るく社交的で、あらゆるイベントで目立つ顔だ。
そんな人がどうしてこんな時間、誰も興味を示さないような花壇の傍にいたというのか。
「いっつもって……」
戸惑いながら口にすると、相手はひょいと肩を竦め、花壇を指し示した。
「いっつも花の世話してるだろ。朝と昼」
「あ、ああ……」
「熱心だなーと思ってさ、近くで見てみたら何が面白いのかわかるかと思って」
クラスメイトにさえほとんど覚えられていない自分のことを、この人気者が知っていたなんて。どう反応を返したら良いのかわからない。そもそもフリオニールは口下手だし、初めて話す人と打ち解けられるタイプではないのだ。
相手はそんな戸惑いなどまったく気にならないらしい。フリオニールが知るそのままの明るさで、慣れた様子で名乗った。
「邪魔して悪かったな。オレはジタンってんだ」
「知ってる……有名だから」
「有名? なんだそれ」
「体育祭でも文化祭でも目立ってるだろ」
「別になんにもしてないけど。お前、フリオニールだよな? オレも知ってるよ。前に女の子に、何組のフリオニールくんが好きだからって振られたことあるからさ」
「ま、待った。俺は、好きだなんて言われたこと、ないぞ!」
「ふーん、奥手を好きになるのは奥手な女の子なのかねー。結構可愛い子だぜ。憎いねーこの色男!」
「お、俺はそういうの、興味ないから……」
どうも居心地が悪くなって視線を逸らし、やりかけだった雑草取りに戻る。するとジタンは実に身軽に花壇を跳び越し、向こう側から顔を覗いてきた。
「そうだろうなー、色男のフリオニールくんには壮絶美人の彼女がいるもんなー」
「……何のことだ?」
自慢じゃないがこの方、自分に彼女がいたためしがない。そりゃあ好きだった子のひとりやふたりはいたけれど、告白する勇気も気力も時間もなかった。
本気でわからずに目を瞬かせるのを見て、相手はにやにや笑って言う。
「オレ、見ちゃったぜ。この前一緒に歩いてるとこ。年上だろ? あれ誰だよ、誰?」
「歩いて……? ああ、多分姉だ」
「あねーっ? 嘘だろ?」
「こんなことで嘘ついてどうするんだ」
「いや、なんつうか意外。一人っ子かと思ってたし」
「兄と弟もいる」
「四人兄弟か、へえ。でも兄ちゃんと弟はどうでもいいや。姉ちゃん紹介してよ、なあ、姉ちゃん」
こういうのは良くいる。フリオニールは努めて兄弟のことを他人に話さないようにしているので、むしろ姉の方の知り合いが、頑固そうな兄を通り過ぎて弟から懐柔しようと話しかけてくることの方が多いけれど。
「駄目」
「なんでだよ、ケチ」
「よく知らないやつに紹介なんか出来ない」
「じゃ、まずは友達から」
「駄目」
「馬鹿、お前とだよ」
よくあるやり取りになって、意識が雑草の方に持って行かれそうになっていた時だったから、危うく聞き流してしまうところだった。右手に草を握りしめて呆けている彼を見て、ジタンは面白そうに「その姿、間抜けだぞ」と言った。誰のせいだと思っているんだ。
フリオニールが反応出来ないうちに、遠くで午後の授業の予鈴が鳴った。それを聞くとジタンはまた花壇を飛び越えて、
「じゃ、今日は一緒に帰ろうぜ!」
勝手な捨て台詞を残して走って行ってしまった。後姿に今日は駄目だと言ったけれど聞こえているかどうか。
花壇を見る。変なやつに絡まれたせいでやりたいことが終わらなかった。早く戻らないと授業に間に合わない。急いで片づけをして立ち上がったフリオニールの顔は、いつもよりほんの少し、赤かった。
「大丈夫? 重くない?」
「へーきへーき」
「ありがとう、一緒に来てくれて助かったよ」
お一人様限定二本の安売り牛乳が六本も買えたし、と嬉しそうに姉が言った。六本も買ってどうするんだと思うかもしれないが、弟が朝晩飲むし、ホワイトソースを使った料理もたくさん作るし、大量のホットケーキで消費するときもある。六本ぐらい一週間も経たずに飲み終わってしまうだろう。
フリオニールが仏頂面なのは、重たい牛乳を何本も持たされているからではなく、駄目だと言ったのにジタンが駅までついてきて、挙句ちゃっかり荷物持ちさえ志願したからだ。このぐらいの荷物だったら俺ひとりで大丈夫なのに。何度か言いそうになった言葉を飲み込んで、二人の後を一歩遅れて歩いている。
「で、こいつってばいつも朝昼まめに花の世話ばっかりしてんの」
どういうわけか、知らない間に自分についての話題に流れていたらしい。今日出会ったばっかりの癖に、よくもまあ。
いつ知り合ったかだなんて姉にはわからないことだし、弟の友達に初めて会ったと喜んでいるから、なんの疑問もなく嬉しそうにジタンの話に付き合っている。いつ余計な話が飛び出してこないかと冷や冷やしていたら、案の定姉の口から他の誰も知らない夢の話が飛び出した。
「ふふ。フリオニールの夢は、世界中を花いっぱいにすることだものね」
「ちょ、ちょっと姉さん!」
「花を見て幸せだって、皆が感じられる世界にしたいんだよね」
「そ、そういうこと、言わないでくれよ!」
「どうして? お友達に話してないの?」
「話すも何も……」
兄や弟にならまだしも、よりにもよって学校の知り合いにばれてしまった。どんな風に思われたか想像に難くない。とても顔を見る気になれなくて俯く耳に、ジタンの暢気にも思える声が聞こえてきた。
「あー、なんかそれ、わかるなあ。オーソドックスに花あげると、女の子って結構喜ぶんだよな」
「花はあげても貰っても嬉しいからね」
「そうそう。気障な台詞は今時流行んないけど、バラの花束ってのは永遠不滅の必勝アイテムだと思うぜオレは。で、お前の作る世界にバラはあんの?」
昼休みの時と同じ、気づくとジタンが前にいて顔を覗き込んでいた。覚悟していたような、馬鹿にした表情じゃなかった。フリオニールはほんの小声で言った。
「……バラは、俺が一番好きな花だ」
「じゃ、女の子口説く時にはお前んとこから買うわ。あ、おねーさんにもあげるからね」
「ううん、フリオニールから貰うから、いいよ」
「ちぇっ、いきなりフラれたぜ」
……そうか、そんな風に捉える人もいるんだ。
何か、胸につかえていたものが落ちてゆくようだった。こんな夢みたいな夢、皆笑うと思っていた。理解してくれるのは姉ぐらいだと決めつけていた。理解の仕方は違うけれど、ジタンは夢みたいだとは言わない。彼の価値観で受け止めてしまった。
突然話しかけてきて変なやつと思ったけれど、ジタンは良いやつなのかもしれない。嫌なやつなわけはないか、あんなに皆に好かれているのだから。他にも、それぞれの受け止め方で聞いてくれる人はいるのかもしれない。もっと早くに試してみればよかった。
話題はもう違う方向に変わっている。好きなものの話とか、学校のこととか。だけれどそれに入って行こうとは思わなかった。嬉しい驚きの余韻にしばらく浸っていたい……知らず知らず微笑み、何気なく反対側の歩道に目をやったフリオニールの表情が、途端に強張った。
クラスメイトだ。いつも馬鹿騒ぎをしている何人かのグループ。発言権が強くて、教師もあまり強いことを言えない。面と向かって会話したことはないが、彼らの口から聞いていて気持ちの良い台詞が出てきたことなどない。
「あれ、花壇男じゃねえか」
知らないふりをして通り過ぎようと思ったのに、向こうがこちらを見つけてしまった。
「今日はお花ちゃんのお世話はしないのかー?」
「今は女の世話で忙しいってよ」
一緒にいた女の子が、やだーと声を上げてけたたましく笑う。同年代の女の子は良くああやって笑う。姉は一度もそんな風な声で笑ったことはないのに。
「フリオニール……?」
心配して、姉が足を止めた。
「なんでもない、ただのクラスメイトだよ。行こう」
「でも」
「いいから!」
「……あいつら、ほんといっつもアホそうな顔してやがるな」
呆れ顔したジタンがひと睨みしたお陰で、クラスメイト達は身を引いて押し黙った。明るくてよく目立つジタンが、暗くて目立たないフリオニールと一緒にいるのが意外だったのだろう。なんであいつが、とか言う小さな声が聞こえた。
でもそんなことはどうでもいい。早く、あの耳障りな声が聞こえないところに行きたい。あの声が、せっかくの温かな余韻を消していく。それがひどく悔しくて、フリオニールは姉の手を引いて、逃げるようにそこから立ち去ったのだった。
そして、今。フリオニールの両手は固く握り締められて小刻みに震えていた。
「こりゃひでーな……昨日のあいつらか?」
ジタンが腰に手を当てて、ぐるりと辺りを見回す。花壇は踏み荒らされ、どの花も手酷く折れ曲がり、靴の後が痛々しく残されていた。
「こんないたずらするなんて、ガキかよ……って、フリオニール?」
ジタンの声は途中からもう聞こえなかった。気づいた時には走り出していた。靴を履き替えもせずに校舎に飛び込み、階段を駆け上がる。
通い慣れた教室にこんな風に飛び込んだことなど一度もなかった。放課後とはいえ教室内に残っている生徒は多く、尋常でない様子の彼を、目を見開いて振り返る者もいた。
そんな視線に構わず、教室の奥に屯している集団へと近付いてゆく。
「お前達が……お前達がやったのか?」
昨日、道を挟んだところにいた顔が、面白いものを見たとでもいうように歪んだ笑みを浮かべた。
「フリオニールくんにはもう必要ないものかと思ってなあ、片付けといてやったんだよ。親切だろ?」
追従する女の子の笑い声がうるさい。頭の中を限界まで引っかかれているようだ。
それでも言い返せずにいる彼の前に、グループの一人が立ち上がって寄ってきた。
「昨日のアレ、良い女だったじゃん。花なんか構ってねえで、頑張ってアッチのお世話しないと逃げられちまうぜ」
ここに飛び込んできた時だって、どうしようだなんて考えていたわけじゃなかった。フリオニールは人とぶつかるのが嫌いだ。ぶつかるぐらいならじっと耐えていた方が良い。
だけれど自分の中の大事な部分を傷つけられた時、湧き上がる激しい感情を抑えることは、彼にだって出来ない。その一言は彼から冷静さを奪い、自分でもコントロール出来ない怒りを生み出した。彼の夢だけじゃない、それを支えてくれる姉までも傷つけられた気がしたのだ。
机を蹴飛ばして、フリオニールは相手に掴み掛かった。誰かが悲鳴を上げて立ち上がり、椅子が倒れ、連鎖的に色々なものが転がった。
自分が何をしているのか、もう良くわからない。相手の胸倉を掴んで殴ろうとするが、喧嘩なんてまともにしたことなどないからすぐに突き飛ばされる。背中を机に打ち付けて一瞬喉が詰まった。
それでも諦めずに立ち上がり、飛び掛る。喧嘩だ!と叫ぶ声。教室内が騒がしくなり、あちこちから野次馬が集まってきていた。
「喧嘩か! 任せろ!」
幾度目か、突き飛ばされて咳き込むフリオニールの前に何者かが飛び込んできた。目がちかちかしてすぐには誰だか認識出来なかったが、後ろで結わえた淡い金髪が揺れているのを見て、ああ、ジタンだと気付く。
喧嘩慣れしているのか、それとも単に元気なだけなのか。人が吹っかけた喧嘩だというのに、乱入してきたジタンの方が生き生きして相手に殴りかかっていた。フリオニールよりよっぽど果敢に戦っていて、それが悔しい。傷つけられたのは自分で、相手を殴ってやりたいのも自分で、だけど吹っ飛ばされてばかりの自分。
せめて一発で良いから浴びせてやりたい。ふらふらと立ち上がろうとする彼の耳に、誰かが叫んだ「危ない!」という声が聞こえた。見ればジタンの猛攻から逃れたうちの一人が椅子を持ち上げて、フリオニールに投げつけようとしているところだった。避けられる体勢ではない。それが振り下ろされようとしているのを、目を閉じることも出来ずにただ見つめていた。彼はぼんやり思った。とうとう一撃も食らわせられなかった、俺は弱いやつだ……
だがまさにその時、フリオニールは見た。自分を傷つけんとする相手の顔に、ネギが……いいか、見間違いではないぞ、長ネギが思い切り激突するのを。
不意打ちでとんでもないものを食らったそいつは、聞き取り難い叫び声を上げて後ろに引っくり返り、椅子はがらがらと音を立てて脇に転がった。
「良く頑張ったな、フリオニール。後は私に任せろ」
自信に満ちた張りのある声が降ってくる。まさか、いやそんなまさか。突然の展開に頭が付いていかないのは彼だけでなく、馬乗りになって相手を殴ろうとしているジタンや、喧嘩騒ぎの成り行きを見守っていた野次馬達、典型的な悪役グループの面々まで一様で、誰もがひととき行動を停止し、長ネギとスーパーのビニール袋を手にした闖入者に目を向けた。
「せ……先生、何故ここに? というよりそのネギは……?」
「セシルの手伝いで買い物に行った帰りだ。昨日何かあったらしいな。セシルが君のことをしきりに心配していたので様子を見に来た」
最初に我に返ったのは、先程長ネギで引っ叩かれたやつだった。
「部外者が入って来てんじゃねえよ! お前なんなんだよ!」
ぶつけたところを庇いながら立ち上がるそいつに、闖入者はこともなげに言った。
「私はチューター・オブ・ライトだ」
教室内が俄かにざわめき立つ。伝説の家庭教師だと囁く声がする。その名はこの学校で、いや、ここらのあらゆる学校中で有名だ。その上そんじょそこらにはいない一級品の美形なものだから、伝説の家庭教師本人かという真偽のほどはともかく、取り囲む女の子達の心はたちまち掴んだようだった。
チューター・オブ・ライトは言う。
「今、私は彼の家に世話になっている。いわば彼は家族同然だ。彼を傷つけると言うのならば私が相手になろう」
そうして長ネギを構える男に只ならぬものを感じたのだろう、ジタンに殴られ放題だった男も、ネギの一発を食らった男も揃って身震いし、脱兎の如く教室から逃げ出していった。
「ふん……他愛もないことだ」
逃げ去った者の後姿を見送ると、ライト先生は鼻を鳴らして長ネギを一振りし、ビニール袋の中に戻した。騎士然とした振る舞いに誰かが感嘆の溜息をつき、やがて教室内は溢れんばかりの歓声に包まれた。ジタンでさえも、すげえすげえと声を上げている。
鳴り響く拍手の中、フリオニールはひとり静かに立ち上がり、そっと教室を抜け出した。誰にも気付かれないように。
ライト先生は凄い。ジタンも、凄い。でもそれが自分の惨めさを際立たせる。踏み躙られた花の為に、自分は何もしてやれなかった。傷つけられた心の中の姉の為にも。
目の奥の方から何かが零れそう。唇を噛み締めて耐えながら、足は裏庭に向かっていた。そこに花は咲いていない。それでも自分の居場所はそこにしかないのだ。
とぼとぼと消沈して外に出た彼は、いつでも静まり返っている裏庭にたくさんの人の気配を感じた。もしかしてあいつらが腹いせに、また何か? 何も出来ないとわかっていながら、歩みは速まる。
そこに彼が見たものは、花壇の前にしゃがみ込んで折られた花を丁寧に除ける姉と、それを手伝う名前も知らぬたくさんの生徒達だった。
彼は暫し呆然とその光景を見つめていた。姉の傍に女生徒が屈み、作業を手伝い始める。こいつはまだ無事だと誰かが言い、踏まれ縒れた葉を真剣に広げる人も。如雨露を持ってきて水をやるのもいた。いつも一人ぼっちだった、花の庭で。
「お前、なんか勘違いしてるようだから言うけどさあ」
いつの間にか傍に来ていたらしいジタンが、ポケットに両手を突っ込みながら言った。
「お前が一人で花の世話をしてるのを見て、なんも感じないやつばっかりじゃないんだぜ。自分も何かしたいけど、言い出す勇気がない。そういうやつらは、お前が育てた花が好きなんだ」
気付くとそのまた向こうにライトがいて、花壇をじっと見つめている。
「人それぞれ愛するものは違う。花を愛することのない人間もいる。だが君が愛する花に心動かされる人間もいる」
「フリオニール、お前の手は殴るのには向いてねえよ。それよりは、折られても折られても咲く花みたいに、めげずに頑張れって」
肩を軽く叩かれる。それに後押しされて、よろけるように一歩を踏み出す。姉の横で土を避けていた女の子がこちらを向いて、あっと声を上げた。気付いて姉が振り返る。
そして、
「フリオニール」
あの日、ただ一言いいねと言った声で、姉が呼ぶ。何故かそれが、涙が零れるほど嬉しかった。
――何日か経った朝。支度を整えて台所に現れた兄に、フリオニールは言った。兄さん、聞いて欲しいことがあるんだ。
それから何が変わったというわけではないが、ジタンは良く話しかけてくるようになった。昼休みなどは一緒に過ごすこともある。自然と、ジタンの知り合いとも話す機会が増えた。
この明るい女好きは、最近やたら特売日に詳しい。今日はどこどこで卵が安いぞと力説するのを適当に聞き流しながら、少しずつ新しい種を植える。それは今までになかった、穏やかな気持ち。
初めてとも言える友人に、フリオニールは心から感謝している。それを正直に口に出したら、そんなことでいちいち感動するなと言われた。人を助けるのも喜ばせるのも、あまり深く考えない。すべては流れのままに、それがジタンのやり方らしい。言葉では貰ったものを返せないようだから、いつか立派なバラを育てたら真っ先に贈ろうと思っている。もっとも実際に贈られるのは、これから何人出会うかわからないジタンの運命の人だろうけれども。
今までと変わらぬ日々。フリオニールはいつものように、朝は家族の世話をして、学校では花を世話する。ただ時々、彼が学校に着いて花壇に行くと、やっと顔を出した小さな芽が水を浴びてきらきらしていることがある。それを見る度フリオニールは思うのだ。俺の夢は、もう夢ではないのかもしれない。
おわり