5.きみの手

「風邪ですな」

 かかりつけだと言う往診の医者は、仲良く並べられた四枚の布団の中身に向かって重々しく宣告した。

「暖かくして水分をたくさん取らせるように。解熱剤を出しておくから、あんまり熱が高くなるようなら飲ませなさい。欲しがるようなら何か食べやすいものを与えて、あとはゆっくり休ませるように」
「はい。先生、ありがとうございました」

 がらがらと戸が閉まり、医者と長女が台所の方に移動したようだ。扉一枚隔てた向こう側から、憚るような小さな会話が聞こえてくる。

『時にセシル、あの見慣れん顔は誰かね』
『ああ、あの人は新しい家族です』
『まさかお前さん』
『違います、別に結婚したとかそういうわけじゃあありません。ただ今とてもお世話になっている方で、家族同然というか』
『怪しい男じゃないだろうね。私はお前さん達のご両親からようく、お前さん達を頼むと言われているんだからね』
『大丈夫です、絶対、百パーセント安心』
『そうだといいが……』

 まるで新製品のプレゼンテーションのように言い切られているのは、間違いなく自分のことであろう。布団の中でじっと縮こまりながら、ライトはそんな会話を聞いていた。怪しく思われるのも無理はない。見知らぬ顔が我が物顔で、兄弟と枕を並べて寝かせられているのだから。
 何日か前から、長男と次男が喉をがらがら言わせたり、ごほごほと咳をし始めていた。同じ時期には末っ子は鼻を啜り上げていたし、ライト自身もなんとなく倦怠感を感じていた。
 昨日の夜には、末っ子が「熱っぽいかも…」と言い出した。計ってみたら微熱があったので、早めに寝かせた。そして今朝。
 示し合わせたように男四人が熱を出した。誰もが布団から動くことが出来ず、ライトは押入れの中で蹲っているのを、長女にほぼ強引に引っ張り出されて下に寝かされた。慌てて呼び出された医者の見立ては冒頭の通り、立派な風邪。学校に街中、ウィルスは至るところに飛び交っているのだから、この家に持ち込まれるのも時間の問題だったのかもしれない……こんなにいっぺんにやって来るとは誰も思っていなかったが。
 医師が帰り、ややあって、長女が部屋に戻って来た。

「先生お帰りになったよ。今日は絶対安静。ティーダとフリオニールは学校に連絡したよ。ティーダはクラブもお休みするって電話したからね。フリオニール、ジタンくんが花壇の水撒きはしておいてくれるって。兄さんも、仕事は休むって連絡したよ」
「お……お前……は……」

 隣の布団で長男が呻くように言った。

「平気。今日はふたコマしか授業はないから休むよ。こんな状態の皆を放っておけないからね。心配しないで。先生は? どこか連絡するところありますか?」
「いや……今日は、ない……」

 びっくりするほど枯れた声を出した拍子に、喉の奥がつっかえたように咳が出た。
 寒気が酷い。熱が出る時には、こんなにあちこち痛くなるものだったろうか……記憶のない自分には、当然過去に熱を出した記憶もあるわけがないのだが、足腰や手、背中までもがずきずき痛むのには参った。まさか大人になってまで、このような事態に陥るとは。
 先生のそんな姿、見られるなんて新鮮、とかなんとか。長女は暢気に笑ってから、買い物に行くと部屋を出て行った。
 すると、部屋が死んだように静かになった。時々誰かが咳をしたり、ごそごそ寝返りを打つ音がする。今日ばかりは誰も他の人間に気を配る余裕はない。声を出すのも苦しいものだから、長女が帰ってくるまでの間、会話のひとつも出なかった。
 それは空気の停滞した、冷たく、寂しい空間で、玄関の鍵を開ける音とともに長女が戻ってきた時には、どこからともなく安堵の溜息が聞こえた。それはライトも同じ。人の生活する音が、これほどまでに安心感を与えるものだとは。
 それからというもの長女は良く働いた。がらりと戸が開き、ヒーターの良く効いた部屋に冷たい空気が流れ込んでくる。

「皆、起きてる? 枕元に飲み物置くから、出来るだけ頑張って飲んでね」

 そう言ってから彼女は、何やら大量のタオルと着替え、そして洗面器を部屋に運び込み、まずは部屋の奥の末っ子のところに向かった。

「ティーダ、汗を拭くよ。着替えさせるからね……なーに? 恥ずかしい? 何言ってるの、散々オムツを替えたんだもの、ティーダのお尻なんて見慣れてるってば。え? 赤ん坊の頃とは違うって? それじゃあ尚更見てやらなくちゃ」

 あまりに弱々しい声だし、一番離れているので何を言っているかは良く聞こえないが、末っ子は最後まで果敢に抵抗したらしい。だがなにせ病床の身、ここぞとばかりに生き生きとしている長女のパワーに勝てるはずもなかった。大人しくなったところを見ると、最終的には素っ裸に剥かれてお世話されたのだろう。可哀相に。
 だが哀れんでいる場合ではなくなった。末っ子の世話を済ませた長女は、次に次男を剥いて着替えさせ、半ば無理矢理清涼飲料水を流し込み、寝かしつけた。そして次は長男。徐々に近づいてくる。まさか、自分まで同じように扱うわけではあるまいな。
 心なしか嬉しそうに長男を着替えさせた後(彼らの名誉のために言っておくが、末っ子だけではなく兄二人も出来うる限りの抵抗は試みていた。だが長女の押しの強さに負けてしまっただけで)、とうとう彼女はライトの元にやって来た。
 無駄になるかもしれないが、彼も必死に声を絞り出して言った。

「私は……自分で出来るから……やってくれなくてもかまわない……」

 というより、看護の仕事であるならいざ知らず、嫁入り前の娘が家族でも恋人でもない男の体を見るような状況が好ましくないことは、いくら記憶のない自分にもわかる。
 しかし、見下ろす長女の顔は使命感に燃えていた。これはまずい。隙あらば布団から這いずり出して逃げよう。押入れまでの距離と今の自分の体力とを照らし合わせて計算を始めたライトだったが、その無駄な理性が仇となった。気付いた時には、思いの外力強い手でがしりと肩を押さえられていたのだ。

「今朝、押入れから動けもしなかった人が何を言ってるんですか。大丈夫、すぐに終わりますから」
「いや……さすがに……それは、まずい……」
「先生のファンのおばさま達には妬かれちゃいますね。スーパーのレジのおばさま達、皆、先生が自分のレジに並んでくれるの楽しみにしてるし」
「そういう……問題では……」
「はい、手を上げて。えい」

 末っ子ではないが、まるで赤ん坊にされたようだ。子どもに注射を打つ医師のように朗らかに話しながら、有無を言わさぬ手際の良さで上着を脱がされ、結局着替えの全てを介助されてしまった。思い返すのもむなしい。
 お世話をされた兄弟がうんともすんとも言わなくなったわけが、今ならわかる。これこそ泣き寝入り。あまりの衝撃に声も出ない。日頃、大抵のことには動じないと思っていたライトだが、さすがにこれは堪えた。
 再び横たえられて布団をかけられ、枕に顔を埋めて目を閉じる。しばらくは何も考えずに寝ていたい。
 その彼の肩口を優しく叩いて、長女は部屋から出て行った。
 ふと。
 何か、思い出しそうな気がした。
 
 
 
 どれぐらい眠っていたのだろう。ふいに意識が呼び覚されたのは、額に何か冷たいものが触れたからだった。目を開けるのも億劫で、そのまま身じろぎせずにいると、布団の上から、首や胸、手足に誰かの手の平が当てられた。鈍い体の痛みが、触れられた場所からすうっと和らいでいくような気がした。
 そして傍らから気配が立ち去り、戸が閉められる音。最後の方で薄っすら瞼を開くと、長女の後姿が見えた。
 苦労して体の向きを変えれば、額にタオルを乗せられた兄弟達が、どことなく安らかな顔をして眠っている。皆、ああして撫でられて、痛みから解放されていったのだろうか。
 それから何度も彼女はやって来て、タオルを替え、汗を拭き、痛む場所を撫でていった。探しても探しても見つからない記憶、なのに感覚だけで覚えている、母の手のように。
 
 
 
 とろとろとまどろむうちに、体の痛みは大分楽になった。幾分か熱が下がったのかもしれない。窓から見える空の様子から、時刻は夕方前というところか。
 試しに起き上がってみる。なんとか動けそうだった。温かい布団を失い身震いしながら辺りを見回し、枕元の飲料水の横に、カーディガンが畳んで置いてあるのを見つけた。ここに来てすぐに「部屋着にどうぞ」と長女が編んだものだ。兄弟は皆色違いのものを持っている。とにかく寒いこの部屋だが、これを着ると嘘のように温かい。
 グレーのそれを羽織って台所の方に出てみると、長女はテーブルに頬杖をついてうとうとしていた。ヒーターは病人の部屋にある。こんな寒い場所で何をしているのだ、毛布のひとつも持ってきてやろうと思ったところで、長女がはっと目を覚ました。

「先生、起きて平気なんですか?」
「ああ、もう大分いい」

 声はまだしゃがれていたが、酷かった朝の声よりはましになっている。

「何か食べられるかな? りんごとか、プリンとか、お粥も温めるだけだからすぐ用意出来るけど……」
「いや……まだ無理そうだ」
「じゃあ飲み物だけでも」

 風邪を引いた時には絶対にこれ、と出されたのは、白く濁った葛湯だった。飲んでみると生姜の味、僅かに甘いのは蜂蜜が入っているせいか。
 ライトが大人しく飲み物に口をつけるのを、彼女はにこにこ笑って見ている。ああ、また何か……この娘は、失くした記憶のどこかを揺さぶる。昔、こんな風に自分を見つめた女がいた……
 カップを握り締めたままぼうっとしていた彼の額に、まどろみの時のように、冷たいものが触れた。

「熱、少し下がったみたい」
「ああ……」

 額から離れてゆく手を反射的に掴む。長女は驚いていたが、振り払わなかった。
 やがてその手を離してライトは言った。

「荒れているな」

 手の甲をもう片方で擦りながら、長女は答える。

「水仕事をしていると、どうしても」
「タオルを、まめに替えてくれただろう」
「すみません、起こしちゃったかな」
「いや。ただ……何故あちこち触っていったんだ?」

 長女は一瞬申し訳なさそうに、嫌でしたかと聞く。ライトが首を振ると、ほっとして続けた。

「母はいつも……頭が痛いと言えば頭に、お腹が痛いと言えばお腹にそっと手を当てて撫でてくれました。誰かに手を当てて貰うと、それだけで痛みが和らぐからって」
「それは、本当だろうな」
「先生も良くなった?」
「ああ。とても良く効いた」
「よかった」
「それに……」

 言おうか言うまいか迷ったが、正直に告白する。

「君に触れられると、何か、思い出しそうな気がした」

 彼女は少し目を見開いて……それから笑って、まるで幼い子どもにするようにライトの頭を撫でた。年若い娘に頭を撫でられるというのは、どうにも気恥ずかしいものがある。だがライトはじっとしていた。
 長女は言った。

「きっとそれは、先生のお母さんですよ」
「母、そうだろうか」
「そうです」

 壁の向こうから、姉ちゃんと呼ぶ声が聞こえた。甘えん坊が呼んでると笑って、長女は立ち上がる。

「それを飲んでしまったら、先生ももう少し寝ていなくちゃ駄目ですよ」

 そう言い残して向こうの部屋に行ってしまった彼女。その後姿を見送りながら、揺らめく記憶の中、母だったのか、それとも別の誰かか、自分に触れたひとを思う。
 誰だかはまだわからない。記憶は目を覚まさない。だがひとつわかることがある。
 自分に触れたそのひとを、私はとても愛していた。
 
 
 
 良くあるパターンとしては、看病する側が看病疲れして病人の回復後に倒れるとかいうもの。
 だがほとんど徹夜で男四人を相手取った重労働をこなし、ウィルスの舞う部屋に出入りし、凍える寒さの台所で一日の大半を過ごしてもなお、セシルはぴんぴんしていた。
 明日からは普通の生活に戻れそうだという夜、何度も服を引っぺがされたティーダが恨みがましく言った。

「姉ちゃんはなんでそんな元気なんだよ……」

 セシルはなんてことないように答える。

「体、鍛えてるから。皆のお世話をするのに風邪なんか引いてられないよ」

 いい加減飽きてきた粥を口に運ぶ手が、一斉に止まった。

「鍛えてるって……いつ?」
「大学のジムは生徒だったら空いてればタダで使えるし、プールが使える日は泳いでるよ。時間があったら、夕方はジョギングしてる」

 それを聞いた次の朝から、病み上がりだというのに長男は三十分早く起きてジョギングに出掛け、次男は律儀に朝晩三十回ずつ腕立て腹筋スクワット、末っ子はより一層クラブ活動に励んだ。末っ子のそれはともかく、長男と次男はそう長く続くとは思えないが、悪いことではないし、まだ若いうちに気が済むまでやらせておくのも良かろう。
 
 
 
 ある日の出張授業の帰り。若い女の子達が好むような化粧品店の前で、ライトはふと立ち止まった。女子高生が友達とお喋りしながら入って行き、仕事を持っているのであろうスーツ姿の女性が出てくる。彼はしばし考え込んでから、店に入り、ハンドクリームを買った。
 居候の身でこんなものを贈るなんて、もしかしたら出過ぎたことかもしれない。ちゃんとした約束もないままに、ずるずると居座り続けている自分のことを、兄弟は早く出て行けとでも思っているかもしれない。だが……
 記憶を失った彼にとって、あの部屋はとても居心地がいい。絶えず失くしたものへの道筋が照らされ、足元の見えない不安が薄らぐ。そしてあの手。
 出来ることならもう少し、傍にいさせて欲しい。そして思うのだ。きみの優しい手が、これ以上傷つかないといい、と。
 
 
おわり