「ずいぶん長かったな。誰と話してたんだ?」
ベッドに寝転み、雑誌を捲りながら聞いた。
電話をかけてくると言って出かけて行ったのは、三十分以上も前のことだ。共用の電話のあるスペースはそう遠くない。順番待ちが必要なこともあるけれど、それを差し引いたって長電話だ。そういうことに意味を見出すタイプじゃないからこそ、相手が気になった。
キロスはばつ悪そうに肩を竦めて、わざと話を逸らした。
「あんた、まだいたのか。いい加減自分の部屋に戻ったらどうだ?」
「オレがどこで何しようとオレの勝手だろ。で、誰?」
「私が誰と話そうと、私の勝手じゃないのか?」
「そうだけど、気になるじゃん」
溜め息ついている。だけど、こいつはオレが知りたいと言ったことを秘密にはしない。このころのオレは、わかりやすく傲慢で、愛されていることを盾に思い上がっていた。
「……妹だよ」
寮の備えつけの椅子に腰かけて、キロスは言った。横顔がいつもよりやわらかい。たった一人の家族のことに触れるとき、こいつはいつもこういう顔をする。
オレに家族はない。だから誰かが家族のことを口にするのが好きだ。そこに愛情が込められていればいるほど、聞いているだけでしあわせな気持ちになる。でも、こいつが妹のことを語るのはなんだか嫌だった。気遣う顔も、慈しむ顔も、オレに見せるのとは違う。家族に勝るものはない。当たり前のことなのに。
「何話したんだ?」
「何って……個人的なことだ。近況とか、まあいろいろ」
雑誌を閉じて体を起こすオレから、困ったように目を背けている。自分に注意を向けられて居心地が悪そうだ。
オレは名目上は班長で、こいつの上官でもあるけれど、プライベートな電話の内容まで報告する義務はない。たとえ友人に立場を置き換えてもだ。恋人なら、そういう我が儘を通すのも可愛いだろう。でもただの友だちなら、距離感をもって付き合うべきだ。踏み込まない一線を守るべきだった。
「オレの話は? オレのこと話した?」
ベッドの端から行儀悪く投げ出した足を、その膝に乗せた。ソックスの上から撫でられるのがくすぐったい。
「すこしね」
「なんて?」
「見ていて飽きない友人ができたって」
「見てるだけじゃねえだろ。お兄ちゃんのココとも仲良しだ」
足の裏で撫でると、ちっともその気がなさそうに足首を掴んで避けられる。むきになって、ベッドを下りて膝の上に跨った。二人分の体重を支えるには心もとない小さな椅子が、ギシギシと悲鳴を上げていた。
首に手を回してキスしようとするのを、肩を押されて止められた。構わずキスした。ただの友だちじゃない。セフレなら、キスしたっておかしくない。
「な、しようぜ」
「もうすぐ消灯だ」
「まだ一時間ある。ケツに入れて出すだけならじゅうぶん」
「そういう味気ないのは嫌なんだよ」
「おまえ、けっこうロマンチストだよな」
くすくす笑って顔を覗き込めば、諦めたように背中に触れてきた。家族の残り香を振り切ってオレに目を向けてくる。いい気分だ。こんな気持ちになったのは、後にも先にも、こいつだけだった。
次に思い出すのは、旅のころ。協力者を得て、明日にもエスタ領に入れるという夜のことだ。オレたちは鄙びた田舎町の酒場で安っぽい酒を飲んでいて、電話をかけに行ったまま戻ってこないあいつを、シスコンだなんて揶揄っていた。たぶん、オレは酔っていて、身勝手に妬いていた。
『誕生日だからな』
ハンドサインを読み取るのにも大分慣れてきた。オレが間違えていないなら、ウォードは確かにそう言った。
「は? 誰の?」
『キロスだよ』
「もう少し先だろ」
『そのころにはエスタの中にいて、場合によっちゃ魔女とやり合ってるかもしれん。呑気に電話なんてしてられなくなる』
「なんで自分の誕生日に電話? ふつう、逆じゃねえの?」
『居場所をころころ変えてるんじゃ、向こうからは掴まらないだろう。もっとも、入隊したときの約束らしいが……聞いてないのか?』
「……知らねえ」
ウォードが語ったのは、涙ぐましい健気な理由だ。あなたの人生を縛りたくない、自由に生きてほしい。ただ、あなたの誕生日を祝いたいから、その日だけは電話をください。大事な妹にそんないじらしいことを言われたら、どんなことをしたって約束を守りたくなるだろう。
オレだって……オレだって、祝ってやるつもりだった。ただの友だちが誕生日を祝ってもおかしくないはずだ。エルを助けてウィンヒルに帰ったら、みんなでパーティーを開こう。レインに頼んでケーキを焼いてもらって……そうだ、甘いものはあんまり好きじゃなかったな。いいや、誕生日パーティーにケーキがないなんて馬鹿げてる。恥ずかしがるなら、ロウソクを吹き消すのはエルにやらせてやってもいい。
……望むのか、そんなこと。オレの独りよがりじゃないのか。オレの世界に繋ぎ止めておきたいだけじゃないか。
オレは喉から手が出るほど欲しかった家族を持って、十分に満足できたはずだった。今はこうして一緒にいるけど、自分の怪我が治っても、生死不明の友だちを探しもしなかった。薄情なラグナにとって、友だちなんてそんなもの。
それでいて執着する理由を、心の奥ではわかってる。だけど底のほうに押し込めて蓋をして、気づかないふりをしている。オレはオレの理屈を一番に優先する。オレの価値観では、その理由は許されないものだから。
あいつが戻ってきたとき、オレはその話題を持ち出さなかった。そして長らく、記憶の隅に追いやって忘れていた。ふいに思い出してしまったのは、それから何年も経ってからだ。
成り行きで留まったエスタにて目まぐるしく毎日を過ごし、魔女政治から人民政治への転換も落ち着いた。その間に起こったいくつかの事柄は、オレとあいつの関係を昔に戻した。ただの友だちから、温度を感じる関係へ。それもまたオレの我が儘で、だけどかつてのように、優越感を伴う余裕はなく、心のどこかに常に焦燥感のようなものがあった。
ことが済んで、いつものように甲斐甲斐しく後処理をしてもらいながら、ぼんやりとしていた意識が急速に醒めていた。シャツを着せるためにオレの体を起こそうとする腕に触れ、そのひとみを見上げて聞いた。
「……でんわ、しないのか」
掠れた声は、情事の名残というよりは、おそれや焦がれのように聞こえて、そのことに自分で嫌悪した。
「電話?」
「おまえ……誕生日は、妹に、電話してただろ」
「どうしてそれを? ああ、ウォードか」
やっぱりオレには隠してるつもりだったのだ。嫉妬を自覚したのはこのときが初めてだった。
「他国との通信を一切遮断しているだろう」
「でも、繋がらないわけじゃない。無線はダメだけど、海底ケーブルは繋がってる」
「今更だよ。もう何年もかけてない。誕生日に電話が来なかったら、私は死んだものと思ってくれと約束してある。彼女の中では、私はもう死人だ」
「や……やめろよ、おまえ、生きてんだから」
キロスは曖昧に笑って、オレをちらりと見た。
「よく言うじゃないか、忘れられることで、人は死ぬんだって」
「忘れるもんか。おまえの妹だって、おまえが生きてるって信じてる。そうだ、今度視察に出るとき、どこかで連絡しろよ。ガルバディアまで会いに行ったっていい」
「行かないよ。情報を漏らすことになる。今は余計な危険を冒したくない」
そうして一度、オレの肩を撫でて立ち上がった。オレは俄かに動揺して、その手を取りかけた。一緒に眠ることは決して多くない。たとえこんな夜だって。でも、今離れて行こうとしていることが、心の距離を感じさせて嫌だった。
嫌だった。素直に言葉にできない。みんなが思うような、明るくて闇を持たないラグナはいない。
「なあ、たまにはここで寝たっていいんだぜ」
「魅力的な誘いだけど、それじゃあゆっくり休めないだろう。部屋に戻るよ。おやすみ」
「……おやすみ」
ドアひとつ隔てただけの、隣り合った部屋だ。それなのに、海に隔てられたガルバディアよりも遠い。
オレが促せば、言う通りにしてくれるはずだった。そうしなかったのは、妹の名前を出してしまったからだ。家族を失ったオレは、あいつに拠り所を求めている。だけど、あいつの心は家族のもとに戻ってしまった。仕方ない。体の一部を繋げるだけで、ただの友だちには引き留める術がない。
きっと永遠に、このひそかな引け目を抱いてゆく。結局オレはまだ一度も、あいつにおめでとうを言えずにいる。
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決してぼんやりしているつもりはなかった。朝はきちんと起きて、食事もきちんとして、仕事も順調。困ったことは何もない。
だけどオレの顔を覗き込んだエルは、開口一番言った。
「キロさん、いつ帰って来るの?」
「昨日出かけたばっかだよ」
「今回は何日の予定?」
「一週間かな。地元に顔見せに行けって言っといたから、もう少し長引くかも」
エルは腰に手を当てて、心底呆れたふうに溜め息をついている。
「おじちゃんの代わりにキロさんがいろんな交渉とかをしてるのは知ってるよ。でも、そんな顔するくらいなら、わざわざ誕生日に行かせなくたって」
「あのなあ、使者が誕生日だから日程を延ばしてくれなんて言えねえだろ」
「おじちゃんらしくないなあ」
「オレだって、そんなに聞き分けなくねえもん。それに、誕生日は家族で祝うもんだしな」
「……それは、もっとらしくない」
あんなに小さかった女の子は、今でもオレにとって大事な女の子だけど、いつのまにか大人になって、ふいに母親みたいな表情をすることがある。いつまで経ってもまともな父親になれないオレからすると、それが不思議で仕方がなかった。
「家族って、妹さんのこと? 前に聞いたことがある」
「そうだよ。会ったことねえけど、美人だって」
「写真見せてもらったよ。うん、すっごくきれいな人」
その答えに、すこし落ち込んだ。落ち込む資格なんてないのに。
あいつがオレに妹の話をしないのは、オレが聞こうとしないからだ。オレはあいつのプライバシーを否定してきた。電話の向こう側にオレの知らない世界が広がっていることが悔しくて、あいつはオレのそばにいると確信しながら、その日がくるのを恐れていた。エスタが閉じている間、オレは家族の絆を案じるふりをして、どこかで安堵していた。その繋がりが切れたことに。
ひどい話だ。あいつはいつもオレの選択を尊重してくれた。オレから強引に関係を変えたのに、オレがウィンヒルで家族を作ったときは、何も言わずにただの友だちに戻ってくれた。レインを喪い、その喪失感に耐えかねたオレが求めれば、また望むように。
その関係が恋人とかたちを変えたのも、オレがそうしようと言ったからだ。オレ以外のすべてを捨ててくれと願えば、叶えてくれるだろう。
「おじちゃんは、遠慮してるのね」
眉を下げて、気遣うような眼差しだ。オレの心を見透かしたような言葉に、思わず狼狽えた。
「エンリョ?」
「そう。キロさんの人生を縛ってしまったこと、後悔してるのね」
まさか。まるで反対のことを考えていた。
オレは執着しない。情が薄いからだ。だけどオレの知らない世界を許せない。だからあいつをまるごとオレのところに置いておきたい。
「いいえ、それだったら、おじちゃんはとうに言ってるはずよ。キロさんがおじちゃんの望みを聞き入れてくれるの、知ってるもの。でも、そうできなかったのね。二十年もの間、キロさんがほんとうにおじちゃんを見てくれるのを待ってるのね」
「……ちがうよ」
「そうよ。私にはなんでもわかるんだから。臆病で、かわいそうな、かわいいおじちゃん」
二回りも離れた子にかわいいなんて言われても、反応に困るだけだ。もともとエルに口で勝てた試しがないけど、この話題となると、オレは本当に弱い。
終業を理由に部屋に逃げ帰った。エスタが閉じているときも、あいつは官邸の外で仕事をすることが多かったから、執務室に姿がないのはそう珍しいことじゃない。でも今は、その不在を強く感じていたたまれなかった。
それぞれ独立した住居でありながら、ドア一枚で繋がっているふたつの部屋は、最近では行き来するのも面倒になってほとんど同居状態だ。二人の部屋に戻ればさびしさも薄れると思ったのに、とんでもなかった。いつもはこれほど心細くない。たぶん、今日はあいつが向こうの世界に行ってしまう日だからだ。
今ごろ何をしてるだろう。久しぶりの再会に話が弾んでいるだろうか。甥っ子だか、姪っ子だかがいると聞いている。ハンサムでやさしい伯父さんが現れて、きっと大喜びだ。話に花が咲いて、もう一日、もう一日と滞在が延びて、ここに帰りたくなくなるかもしれない。
柄にもなく憂鬱な想像をして、むしゃくしゃしてとびきりのワインを開けようとした。いつか一緒に飲もうと大事に取っておいたことを思い出して、やめた。本当は、今日、一緒に飲みたかった。
もうすぐ日付が変わるというころ、テーブルに突っ伏してうとうとしていたオレの耳に、か細いコール音が聞こえてきた。飛び起きて、受話器に手をかけて、もったいつけてしばらく取らなかった。それでも鳴り続けるそれがいとしくて、くちづけしてから耳に当てた。
『やあ、寝ていたかい』
「おきてた。なんだよ、こんな時間に」
『あんたの声が聞きたいと思って』
曇ってくすんでいた気持ちが、ゆるやかに解けていく。薄情で、我が儘で、ゲンキンで、カンタンだ。オレはずっとそうだった。
『いつか言おうと思っていたことがあるんだが、あんたがまだ眠らないなら、今すこし、話してもいいかな』
「どうしようかな」
『十秒だけ』
「いいよ」
『妹に電話をかけるとき、いつもあんたの話をしていたよ。私の語る言葉には、いつもあんたがいるんだ』
カウントすら忘れて、オレはただ、息遣いも聞こえない向こう側に耳を澄ましていた。そこにはオレの知らない世界があるはずだった。
「……オレも、いつか言おうと思ってたこと、あるんだ」
『十秒で足りるかな』
「三秒で済むよ」
『どうぞ』
息を呑んで、舌先で何度も確かめて、電話線が一番やさしい響きで届けてくれることを願いながら。
「誕生日、おめでとう」
おわり