Never Enough 2

 ラッピングしないでそのままにしておいて、切り分けて一緒に食べるのだそうだ。彼女の残したレシピのレモンケーキはエルオーネのとっておきで、オーブンを使う工程は手伝うけれど、それ以外はメモも見ずに一人で進められるほど手慣れている。まだ十歳でありながら、お菓子作りの腕はたいしたものだ。飾り付けなどはオレなんかよりずっと丁寧で、洒落ていた。
 ウォードおじちゃんに食べてもらうのだと、昨日から張り切っていた。パウンドケーキは一晩寝かせたほうが味が馴染む。昨日の夜には焼き上がり、まだまだ殺風景なキッチンのカウンターの上で、出番が来るのをお行儀よく待っていた。
 チャイムが鳴り、スコールのおもちゃ遊びに付き合っていたエルオーネの顔がぱっと輝く。

「ウォードおじちゃんかな!」
「ん、そろそろかもな」
「出ていい?」
「ちゃんと確かめてから開けるんだぞ」

 はーいと明るく答え、覗き穴から客を確かめるためにキッチンで使っていた踏み台を持って、エルオーネは飛んでいった。それだけでスコールは不機嫌だ。お姉ちゃんが他の誰かに興味を示すのが腹立たしくて仕方がない。そういう我儘で独占欲の強いところは、本当にオレそっくりだと思う。
 しかし、いつまで経ってもドアは開かれず、招き入れる声もしてこなかった。エルオーネは動揺を抑えようとした冷めた表情で戻ってきて、普段の彼女からは考えられないほどの素っ気なさで言った。

「ウォードおじちゃんじゃなかった」
「誰か間違えて来たのか?」
「ちがう、おとうさん、出て」

 困惑したまま玄関に向かい、覗き穴を覗いて、はっと息を飲んだ。このまま出ないでやり過ごそうかと思うほど狼狽えていた。ボルドーのチェスターコートに黒のインナーとパンツを合わせた細身のシルエットが、小さな視界にすとんと収まっている。がっしりとした巨体のウォードとは似ても似つかない。まるでそこに誰もいないような、静かで雪みたいな存在感。
 散々躊躇って、結局、内なる声には抗えなかった。チェーンを外してドアを開けながら、オレは今どんな顔をしてるだろう、だなんて、ぼんやりと思っていた。

「よう……どうしたんだ? 約束してたっけ?」

 思ってもいなかったような冷たい声が出た。感情を堪えようとしたがゆえのことだった。

「いや……ウォードが、引っ越しを手伝う約束をしていただろう。ベッドや家具を組み立てるとか」
「まあ、な」

 節約のためにと専門業者を頼まなかったのだが、三人分の家具を設置する作業は男一人の手には余る。ホテルからこの部屋に移ったのは三日ほど前のことで、ウォードが来てくれるまではと、床に直接マットレスを敷いて寝ていた。さすがに今日は、きちんとしたベッドに眠りたいところだ。

「彼は腰を痛めて……代わりに行ってくれと頼まれたんだ」
「腰? だいじょぶなのか?」
「持病みたいなものだが、数日は安静にしていないと」
「そんなら、電話でもしてくれりゃ……」

 言いかけて、それが不可能なことを後から思い出した。声によるコミュニケーションが出来ないウォードは、電話の代わりに手紙しか使えない。
 だが、それならなんでこいつには連絡が取れたんだ。オレの知らない連絡方法を持っているのか。それとも、近況を把握し合えるほど頻繁に顔を合わせているのか。
 理由はどうであれ、手伝いに来てくれたものを追い返すわけにはいかない。オレが身を引いて招き入れると、キロスはありがとうと言って、音もなく滑り込んできた。
 スコールの喜びようったらなかった。誰より素直に客を迎えたのはこの子だっただろう。もしもスコールがいなかったらと考えるとぞっとした。誰に対しても友好的なエルオーネはどういうわけか推し黙ってしまい、オレの呼びかけにも硬い表情で形式的な返事をするだけだ。オレはといえば、あいつのある変化に気付かされて、ずっと心落ち着かなかった。それを覆い隠そうと、いっそう馬鹿みたいに振る舞うのだった。
 どんなに気まずくとも、機械的に手を動かしていれば部屋は片付く。夕方には家具の取り付けは済んで、荷物も大まかには収まった。あとは仕事を探す合間に毎日少しずつ取り組めば、一週間もしたころにはそれなりの住み心地になっていることだろう。
 せっかくの休日を潰して手伝ってくれた相手を、なんの礼もせずには帰せない。それ以外の理由などないと自分に言い聞かせ、食事に誘った。外に食べに出てもいいし、時間がかかってもいいなら何か作ることもできる。
 だがあいつは首を縦には振らなかった。オレは意地になって、なじるように聞いた。

「なんか用でもあるのか? 明日早いとか?」
「いや、そういうわけじゃない。だけど疲れているだろう。あんたは大丈夫だとしても」

 子どもたちのことを考えろとでも言いたげだった。手伝いをしていたエルオーネも、興奮状態だったスコールも、瞼がどんよりと重たそうだ。オレはそんなことにも気が回らなくなっている。

「えっ……かえるの、やだ、あそぶ! おはなしする!」
「スコール」
「やだ、やだ、やだーっ!」
「あ、あの!」

 駄々をこねるスコール見て、言葉少なであったエルオーネが、無理やり作り上げた笑顔で言った。

「わたしの、ケーキ、切って食べてもいいよ」

 戸惑うオレよりも、あいつの答えのほうが早かった。

「いや……もしよければ、明日にでもウォードを見舞ってあげてくれ。焼き菓子は彼の大好物だから」
「いっしょにたべるの!」
「それじゃあ、こういうのはどうだい。スコール、おとうさんが良いと言ったら、二人でハンバーガーを食べに行かないか?」
「いく! おとうさん、おねがい!」

 オレの頭を越えて、二人で話を進めている。いっそ駄目だと言ってやりたかった。オレを避ける口実だと思ったから。でも目をきらきらさせているスコールに、そんな酷なことは言えない。

「……いいよ、行っといで。言うことちゃんと聞くんだぞ」
「うん!」
「一時間くらいで戻る。何かアレルギーは?」
「何も。ただ卵は良く火が通ってないと、腹壊しやすい」
「わかった。スコール、行こう」

 差し出された手を取って、スコールはうきうきと出かけていった。大好きなお姉ちゃんと離れたくないとも言わなかった。そのうちさびしくなって泣き出すかもしれないけれど、振り返らずに行ってしまった。
 エルオーネは悲しむんじゃないか。振り返って見れば、彼女はわずかに俯いて、ぼうっと宙を眺めている。その様子に不安になって……いたたまれなくて、ぼそぼそと呟いた。

「エル、ウォードが来なくて、残念だったよな」
「うん」
「そんで……もしも……あいつが……キロスが苦手なら、もう来てもらわないようにするからさ」
「あのひと、嫌い」

 未だかつてこれほど厳しい声を聞いたことはなかった。オレは驚いて、彼女にそんな強い言葉を選ばせてしまったことに、すこし怯えていた。
 それと同時に、たった二度顔を合わせただけなのに、何が彼女をそうさせたのかがわからなかった。異国的な風貌は目立つこともあるが、立ち振る舞いにおいて、あいつが初対面の他人に嫌悪感を与えることなどないだろう。ましてやエルオーネは人を外見で判断するタイプじゃない。
 ウィンヒルに駐屯していた兵士たちを、エルオーネはそれほど好いていなかった。あいつの兵士という肩書を嫌っているのではないかという予想は、うつろなひとみに意思を重ね、オレを射抜いたエルオーネの答えに打ち砕かれた。

「だって、おとうさん、あのひとのこと、好きでしょ」

 ああ、そりゃそうだ。気の知れた友だちだからな。親友のことを嫌いなやつなんていないだろ──心は言葉にしているのに、体は強張るばかり。いつだって心と体が一致していて、水のように滑らかに感情を表すことができるオレが、唇を震わせて一歩も動き出せなかった。
 ……聞こうと思えば聞けた。そうしなかったのは時間がなかったからだ。もしくはエルやスコールがいたから。あいつがオレを避けたから。
 ただの世間話のように聞けば、きっと「作業の邪魔になる」なんて平凡な理由が返ってきたはずだ。期待するまでもない(期待?)、たいした意味などない。
 わかっているのに、聞けなかった。
 なあ、どうして指輪を外してきた?
 
 
つづく