At your feet

 日差しを避けるために木陰を選ぶわけでもなく、声が届くほど近づくわけでもない。中途半端な距離感でぼうっと佇む後ろ姿にいい加減呆れて、とうとう声をかけた。

「そんなに気になるなら、混ざってくればいいだろう」

 こういう状況には、過去にも何度か遭遇したことがあった。喜びと、戸惑いと遠慮とで、身動き取れなくなっている。過去の旅では気づかなかったことだが……たぶんそれは、自分がまだそういうことを見抜けず、また周囲に気を配れないほど精神的に追い詰められていたからだ……容姿や言動からは想像できないほど、こういうときのジェクトは臆病で繊細なのだった。
 そんなんじゃねえよ、などと力なく呟き、そばにやってきて腰を下ろしたが、視線は相変わらず一方から逸らされない。その先では帽子や外着を脱いでラフな格好をしたブラスカが、仲間の子どもたちと視線を合わせ、時折声を上げて笑いながら話していた。
 ブラスカが子どもたちに慕われる光景は、あの旅のころも良く見た。一見すると強面のジェクトや無愛想な自分に比べ、ブラスカは明るく穏やかであったし、何より子どもの扱いに慣れていた。もっとも、ちょっと言葉を交わせば子どもたちはジェクトが怖い人間ではないと見抜いて、盛んに遊んでほしいとねだったが。
 ほんの少しだけ視線を返し、アーロンの手元をちらりと見て、ジェクトは言った。

「……んで、おまえはなにしてんだ?」
「見てわかるだろう、ブラスカの服を繕っている」
「ったく……あいつの不器用も、昔っから変わんねえなぁ」

 呆れている。アーロンは何も言い返さなかった。
 そんなはずがない。スピラに暮らす人間の多くがそうであったように、早くに親を亡くしたブラスカは子どものころから僧官に奉公していて、縫い物どころか炊事や洗濯、掃除の類も一通りこなせた。旅の間、すべて苦手なふりしてアーロンを頼っていたのは、ともすれば無力感に苛まれて苦しむ年下の男に、ささやかな存在理由を与えてくれていたのだ。アーロンが供をせずともブラスカは不屈の意志で一人ザナルカンドまで旅したかもしれないが、そう振る舞うことで、君がいないと駄目なのだと信じさせてくれた。
 それでも、もしジェクトを伴わずに旅に出立していれば、いずれアーロンはぐずぐずと悩み、ブラスカの足を止め、煩わせることになっただろう。そうするべきだったと思う気持ちが捨てきれたわけではない。だがブラスカが再三言うように、たとえ結末が無情であったとしても、あの旅は楽しく、かけがえのないものだった。
 ジェクトとてそう納得したはずなのに、いつまでもじくじくと悩み続けているのは、違う立場であったゆえだとアーロンは思う。自分は死人とはいえ後見人として、子どもたちを見守ることができた。シンと化したジェクトに出来たのは、壊すことばかりだ。彼の気持ちを想像することはできても、理解できるとは言えない。もう気に病むななどという、慰めにもならない安易な言葉をかけることくらいしか。

「……まだ、シンになったことを悔いているのか? それとも、ブラスカを死なせたことを?」

 ひと針通すごとに縫い目を確かめ、沈黙ごと取り繕おうとしている。ジェクトは再びぼんやりとブラスカのほうへと目をやって、いや、と、意味ありげに呟いた。

「悔いてねえって言ったら嘘になるが……ちょっと違う、たぶん、おまえが考えてるのとは」
「話してみる気にはならないか?」
「そうだな……」

 さほど覚悟をした様子ではない。いつかは打ち明けようとしていたのかもしれない。
 木の葉のざわめく影の中、今ではないどこかを見つめるような眼差しで、ジェクトは言った。

「……あいつが死んだとき、どんなふうだった?」

 懺悔や告白が始まると思っていたから、問いかけられて、少し戸惑った。そういえば、お互いそのときのことを話そうとしたことはなかった。

「ひどく苦しんだか?」
「……苦しんだが、一瞬だった」
「なきがらはどうした?」
「覚えていないのか?」

 先代のシンが斃れ、幻光虫が螺旋を描き輪郭が崩れてゆく傍らで、ブラスカの喚んだ究極召喚獣は死の苦しみに悶え呻いていた。それひとつで山を攫ってしまいそうなほどに大きな腕を振りかぶり、大地に爪を立てて激しく咆哮した。体を作り変えられる苦痛のためだ。慟哭しているようにも思えた。
 シンを打ち倒し深く息をついた刹那、ブラスカは目を見開いて体を捩り、手足を引きつらせて、血の涙を流し絶命した。アーロンは膝を折り、そのなきがらを腕に抱いて、嘆き悲しむかつての友をなすすべなく眺めていた。
 新たなシンとなろうとしている召喚獣は、かろうじて形の残る手を、懸命にこちらに伸ばしていた。苦しみの中で、死を悼んでいるのだと感じた。涙はとめどなく流れるのに、体からは感情が乖離している。自分のものでないような腕を差し出し、骸を大きな手のひらに乗せてやった。この無情な平原に、ひとり残したくなどなかった。冷たい土の下に埋めたくなどなかった。しかし町へと連れ帰れば、つまらない諍いが起きて奪い合いになることは目に見えている……大召喚士の遺物とされる物が裏社会で高値で取引されていることを、アーロンは知っていた。
 新たなシンは、最後に一度悲しげに哭いて骸を飲み込み、重い体を引きずるようにして海へと向かっていった。何も変えられなかったことを思い知り、アーロンは泣いて、泣いて、三日三晩、降り注ぐ日に焼かれながら泣いて、涙枯れ果て、独りでザナルカンドに向かった。

「なきがらは、お前が海に連れて行った」
「……そうか」
「それまでの大召喚士たちも、墓は残っていなかった。人知れず埋葬されたか……もしかすると、肉体は朽ちる前に消えてしまったのかもしれないな」

 抱き留めたときには既に温度がなかった。冷たいのでも、温かいのでもなく、ただ綿を抱いているように質量がなかった。究極召喚を得た後のブラスカは、人からずっと離れてしまったように思う。人間としてのブラスカは、たぶんザナルカンドで死んだのだ。
 ジェクトは長らく黙りこんでいた。ひとみだけは、かつて死なせた友を見つめている。

「あんときのオレは……死ぬ苦しみに襲われちゃいたが、耐えられた。もう生身はなかったし、人間でもなくなってた。召喚獣だから、あの痛みに耐えられたんだ。人間なら耐えられねえ。強いとかでかいとか修行を積んでるとか、そんなもんまったく役に立たねえよ。どんな人間も、体が壊れて死ぬ。そういう痛みだった。だからブラスカは死んだんだ」
「どういうことだ? エボン=ジュに憑依されたのはおまえだろう」
「オレたちは、完全に感覚を共有してた。オレの痛みはそのままブラスカに伝わった。オレは耐えられたが、ブラスカは耐えられなかった。あいつが死んだのを感じて、それ以上抗えなくなって、オレはエボン=ジュに負けたんだ」

 そんなこと、誰も語らなかった。究極召喚は召喚士の命そのもの。だから召喚士は戦いを経て、力を使い果たして死ぬのだと信じて疑わなかった。
 それでは、もし究極召喚がシンを完全に倒せるものだったなら、ブラスカは死ななかったのか。もし……もし究極召喚獣が、エボン=ジュを跳ね除けられていたら。
 きっと、それがジェクトの後悔だ。実際には跳ね除けることなどできなかった。召喚獣はどうしたって、エボン=ジュの依代にならざるを得なかった。だがそのシステムを正確に理解できていれば、何か方法があったのではないか。自分の力でエボン=ジュを遠ざけられたなら、短い間……べベルで娘にただいまを言う間だけでも、ブラスカを生かせたのではないか。ジェクトがそんなふうに考えるのは、無理もないことだった。

「きっとあいつも、なんで死んだのかなんてわかっちゃいねえんだ」

 ぼんやりと開かれた唇は、いつもの快活さが嘘のように、ガサガサと乾いて頼りない。

「力を尽くしたせいだと思ってるはずだ。それでいいんだ。なんで死んだか知ったら、おんなじだけの痛みをオレが味わったと、あいつは気に病む。オレを祈り子にしたことを、道連れにしたって思ってねえはずがねえ。もうこれ以上、あいつを悩ませたくねえんだ。だって、オレは大丈夫だったんだから」
「……だがおまえは気に病んでいる。ブラスカだって、同じように思うんじゃないか? これ以上悩むなと」
「オレは……」

 唇を噛んで、

「……悔やんでるのとは違う。怖いんだよ。どうにもできねえことであいつが死んで、オレはまたそれを、どうにもできねえまま感じ取って、またオレだけが生き残ることが、怖くてしかたねえんだ」

 それで、片時も目を離せずにいるのか。およそ安穏な場所にいても、不意に危険が訪れないとも限らない。そばにいれば守れるかもしれない。手の届く場所にいれば、目をそらさなければ。
 一度は耐えた。二度目は耐えられない。肉体が耐えられたとしても、心は二度死ぬ。
 だがそれでは、安らげる瞬間はないだろう。不安ばかりが繰り返しやってくる。人の力ではどうにもならないことだってある。たとえば空から隕石が落ちたとして、大地が割れて落ちたとして、庇い守ることはできない。普通なら諦めのつくことが、ジェクトは恐ろしくて仕方がない。この先、自らの死が訪れるまでずっと、恐れ続けるのだった。
 どんな言葉をかけてやればいい。戦って憂さ晴らしをしようだなど、間違っても言えない。そんなことをしているうちにもしものことがあったなら、と怯えるだろう。
 手を止めたまま、縫いかけの服が膝の上で皺を作っているのを見下ろしていた。風の音と、遠くで笑い声が聞こえるだけ。現実味のないぎこちない空間に、友人の無防備な「あっ」という声がふいに差し込まれた。
 顔を上げて確かめれば、子どもたちに手を振って、ブラスカがこちらに歩いて来ようとしている。

「やあ、深刻な顔をして、どうしたんだ?」

 娘に継がれた同じ色の前髪を、少し億劫そうに払って、ブラスカはかろやかに聞いてきた。どん詰まりのこの状況の中で、その声は流れ落ちてきた澄んだ水だった。

「なんでもねえよ」

 ジェクトは当然のように、打ち明けはしなかった。本人に伝えたとしても悩ませるだけだ。再会してからこのかた、自分の弱い面をどうにか見せたくないと強がっている。一度大きく崩れただけに、もう決して、という決意があるようだ。
 だがブラスカは、そういうジェクトの強がりを見抜いているのではないかと思う。何を悩んでいるのかにも気づいているし、きっと、自分が死んだ理由も知っている。ジェクトに対して負い目を感じていても、それを表に出せば友をより深く苦しませるから、気づいていないふりをしているのだ。
 旅の始め、「裾を引っ掛けて破いてしまったよ、どうしよう?」と困ったふうに眉を下げたときのことを思い出した。思惑なんてわからずに、お任せくださいと胸を張ったことを覚えている。ああ助かった、アーロン、君が一緒でよかったよ……たいしたことではないのに、そう言われて本当に、本当に誇らしかった。

「ジェクトは……」

 語らない友の代わりに、アーロンは口を開いた。余計なことを言うなと睨みつける気配がしたが、構わなかった。

「おまえが危険なことをするんじゃないかと心配して、気が気ではないんだ」
「子どもたちに遊んでいてもらっただけだよ」
「何が起こるかわからないだろう。急に魔物が襲ってきたり、転んだ先の岩に頭を打ちつけたり、急な雨に降られて体を損ねたり」
「魔物が襲ってきたら、もちろん戦うさ。いくら力を持っていてしっかりしているとは言っても、小さな子どもたちと一緒にいるのだから、守らなくては。だけれど、そうでなければ無茶なことはしないつもりだよ。十分に気をつけているし、ままならないことがあればすぐに君たちを呼ぶ。この身を一番に考えているからね」
「こちらが何度泣いて止めても、世界のために命を捧げるのだと譲らなかった男の言うこととは思えんな」

 ジェクトが目を剥いている。冗談のようにでも聞こえたのだろうか。まだ、軽口にするには早すぎる。
 しかし遠回しにするばかりでは、本心など聞けようもない。今はもう、あの結末を禁忌にする時期は過ぎたのだ。

「そりゃあ当然だよ。あれを喚び出せるのだから、私とジェクトはまだ繋がっている。今の君の体はただの人間だ。私が死ねば、たぶんその衝撃が伝わって、君をも死なせる。つまらない無茶でそんなことが起きたら、悔やんでも悔やみきれないじゃないか」
「おまえ、知って……」

 呆然としたジェクトの言葉を遮り、ありふれた日常を語る気安さで、ブラスカはさらりと言った。

「だが大人しくしていても、危険に巻き込まれることはあるね。どうしたって助けを呼べずに、抗えないまま死ぬことになったら……そのときはすまない、一緒に死んでくれ」

 軽い口調でも、とりたてて重くもなかった。ただただ穏やかで、寄る辺のなくなった小さな子どもたちに青い空の理由を教えようとした誰かにも似ている。深いいたわりすら感じた。
 ジェクトは何も言えず、いくらか唇を震わせている。絶望や怒りはそこにはなかった。冷めてもいなかった。いつか来るかもしれない死を語っているというのに、不思議と安らいでいる。傍観するアーロンにさえ、その胸のうちに灯が灯るのが感じられた。
 死が救済であると認めるつもりはない。ブラスカだってそのはずだ。可能な限り生にしがみつくし、最後の最後まで死に抗い、生き延びる手段を探し続けるだろう。アーロンの涙を、今度こそ受け止めてくれる。その身を擲つことはない。
 それでもそのときが来たら、一緒に連れてゆくと言った。たとえそれが友を安心させる方便だとしても、遺されることに怯え、身動き取れなくなってしまったやさしい男に、私は報いると。
 自らの言葉が後に繋ぎにくいものであったと察して、ブラスカは明るく続きを口にした。

「そういうわけだから、君もあまり無茶をしたら困るよ。お互い毎日慎重に、しかし前向きに過ごさないと。まあ、ジェクトのやんちゃは、見ていて気持ちのいいものでもあるけれどね」
「……気持ちがいいものか、煩わされて迷惑なだけだ」
「そうかな? 小さな子どもを見ているようで可愛げがある」
「ずいぶんと図体がでかくて手のかかる子どもだな」
「おまえら、黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって……」

 ジェクトは不服そうに口を尖らせた。その顔には安堵が浮かび、いつもの彼のまばゆい活力が戻ってきている。拗ねていたって、彼は救われている。恐れも望みも射抜かれて。
 いつだってそうだ。ジェクトがいなければ旅には喜びがなく、また死の輪廻も断ち切られなかった。アーロンがいなければ、その想いを若い世代に繋げられなかった。
 でも、ブラスカがいたから三人は出会い、旅をした。いちばんどうしようもない、どうにもならない結末が待っていても、その他のすべての問題は、ブラスカが大丈夫だと笑い飛ばせば大丈夫になった。そういう力が彼にはあった。深く語り合い、困難に立ち向かおうとしたところで、彼なしでは駄目だった。
 ひとしきりからかって、笑って、満足したらしいブラスカは、もうすぐ仕上がるアーロンの手元に目をやった。

「すごいね、おろしたてみたいにきれいだよ。やっぱり君に頼んでよかった。ありがとう」

 そうして、かつては年下であった友の名を呼ぶ。
 あれから時が経ち、アーロンは彼らと並ぶ歳になった。容姿はすっかり老け込んで年齢以上に見られるから、三人で並ぶと自分が一番年上のようだった。
 だけれど、心の上ではいつまでも変わらない。どんなふうに語りかけてみても、慕い、尊敬している。だからいつだって誇らしい。あなたのお役に立てることが、友として。

 

おわり