永遠の旅 - 8/10

8.赦す猫

 

 その日は曇り空で寒かったからか、フリオニールはいつもより調子が悪かった。

「ここのところ、あまりまともなものを食べさせてやれなかったからな……」

 心配そうに見つめながらクラウドが言った。

「……兄さんの……せいじゃない……大丈夫だ……」

 か細い声でフリオニールが返すと、セシルが明るく言う。

「そうだよ、大丈夫。美味しいマグロの一切れも食べれば、すぐに元気になるんだから」
「マグロったって……そんないいもの、なかなかくれる人いないぜ?」
「平気、手に入るところ、知ってるから。ティーダ、代わって」

 フリオニールの支えをティーダと代わると、セシルは立ち上がってぐっと体を伸ばした。
 セシルの体はとってもしなやかで、きれいだ。そりゃあ、毛並みは少し汚れてぼさぼさだし、ところどころ傷あとも目立つけど、そんなのあんまり関係ない。セシルがそのきれいな体を翻して獲物に飛びかかったり、木をすいすい登っていくのはすごくあざやかで、いつもぼくは目が離せなくなってしまうんだ。
 この前も、セシルはぼくに木登りのコツを教えてくれた。今まで木登りなんてしたことはなかったけど、ぼくはけっこう筋がいいって誉められた。これは内緒だけど、ぼくが練習に使った木をクラウドは登れないんだって。
 そのクラウドは難しい顔をして、どこかへ行こうとするセシルを呼び止めて言った。

「おい、セシル。あんまり危ないことをしてくれるなよ」
「危ないことなんかしないよ。まったく、兄さんは心配性なんだから」
「そうは言うが、前にも人間に追いかけられて足を怪我したことがあったじゃないか。いいか、何度も言うが、お前は特別な猫なんだからな。世界中の猫の中で最も美しく高貴で……」
「はいはい、わかってる。じゃあ行くね。ティーダ、フリオニールをよろしく。たまねぎちゃんも良い子でね」
「あ、待て! 話はまだ終わってないぞ!」

 クラウドは追いかけたけど、跳ぶように走るセシルには追いつけなかったみたいで、途中で諦めてとぼとぼ歩いて戻ってきた。
 ぼくはティーダに小声で聞いた。

「さっきの、どういうこと?」
「ああ、あれはな……」

 ティーダは大あくびをしてから、

「なんでも昔母さんから聞いたとかで、おれたちは月から降りてきた女王猫の血統で、姉ちゃんはいつか女王猫になるって、兄ちゃんは信じてるんだよ」
「ええっ、そうなの?」
「まさか、母さんの作り話だって。姉ちゃんは確かに美猫だしスタイルもいいし狩りもうまいけど、特別他の猫と違うところはないからな」
「ああ、それで……」

 猫集会で澄まし猫に絡まれたクラウドが、滅多な猫には妹を嫁にやらんだなんて言ったのは、そういうわけだったんだ。
 あの怖いクラウドにも、意外と夢見がちでかわいいところがあるんだな、なんて思ってたら、いつの間にかここまで戻ってきてたクラウドに睨まれて、ついでに首根っこをがぶりとやられた。縄張り争いでは勝ちなしのクラウドだけど、悔しいことにぼく相手には連戦連勝なんだ。
 その後、なにか探してくると言ってクラウドも出かけていった。ティーダとぼくはフリオニールを挟み込んで、お喋りしながら待っていた。
 少し経ってから、食べられるものをちょこっと見つけてクラウドは戻ってきた。だけどいつまで待ってもセシルは戻ってこなかった。もう出かけてから随分経つ。だんだん心配になってきて、クラウドはうろうろ歩き回ったり座ったりを繰り返しはじめた。
 冷たい風が吹いて、公園にいやな予感を運んできた。

「……遅すぎる、探しに行ってくる」

 決意して立ち上がったクラウドを、誰も心配性だなんて言わなかった。
 ぼくも行くと口を開きかけた時、向こうからジタンがものすごい勢いで走ってくるのが見えた。

「あれ? ジタン、どうしたの?」

 ベンチまでやって来たジタンは、ぼくの暢気な問いかけになんか答えずに、深刻な顔して告げた。

「セシルが大怪我して倒れてる。もう動けない」

 クラウドとぼくが駆けつけた時、セシルの傍にはバッツが座っていて、ずっと声をかけ続けていた。ぼくらを見つけると、バッツは静かにそこを退いた。
 倒れたセシルを見たぼくは言葉を失った。体中……しなやかできれいな体中にたくさんの傷が散らばって、月色の毛皮はどこもかしこも血にまみれていた。

「セシル……」

 クラウドが押し殺した声でそっと呼ぶと、セシルはなんとか立ち上がろうとした。だけど後ろ足がまったく動かなくて、そのまま力なく地面に崩れてしまった。

「竹箒で無茶苦茶に叩かれたんだ……」

 唸るように言うジタンに、ぼくは震えながら聞いた。

「……人間が……やったの……?」
「ああ……そうだ。」
「なんで……どうして……ひどい、ひどい!」

 たまらなくなってぼくは叫んだ。ぼくは人間が好きだった。ひどいことをする人間がいても、人間を信じようと思った。ぼくに優しくしてくれたティナへの想いが、いつもぼくの気持ちを支えてくれていたから。
 だけど、もう、それも限界だ。心の奥から今日の曇り空のように暗くて重い感情が湧き上がってくるのを止められない。胸が苦しい。大好きなものさえ光を失って大嫌いになってしまいそう……それはぼくが初めて知った“憎しみ”だった。

「……たまねぎ……ちゃん……」

 消え入りそうなセシルの声が聞こえた。

「人間を……憎んでは……駄目だよ……」

 倒れたセシルのうつろな目が、じっとぼくを見つめている。ぼくは地面を握り締めて言った。

「セシルにこんなことをして! 憎まないなんてこと、できない!」
「たまねぎちゃんは……ひとの……中で……生きるんでしょう……だったら……憎んだら……つらくなるよ……」
「つらい! 今だってつらいよ! 許せないよ、セシルを叩いた人間が、許せないよ!」
「今度のは……人間のせいじゃない……人間の領域を……侵した……だから……人間が怒っても……仕方がない……叩かれても……仕方がない……」
「どうして……!」

 ぼくはセシルの顔の前に縋るように身を乗り出した。

「どうして! こんな目にあったのに、人間を恨まないの!?」

 セシルは今にも途絶えそうな苦しい息の下で、どこまでも穏やかに、言った。

「うら……まない……」
「なんで!? ぼくにはわからない、なんでそんなに優しいの? なんで!?」
「やさしい……わけじゃ……ない……ただ……誰かのせいに……しないだけ……猫は……誇り高い……猫は……生きる……理由も……死ぬ……理由も……誰かの……せいに……しない……ただ……受け入れるだけ……だから……恨んだり……しない……」
「……もうつらいだろう……あまり、喋るな……」

 クラウドがセシルの耳元に顔を寄せて言った。
 あんなにセシルを心配していたクラウドがどうしてそんなに静かでいられるのか、ぼくにはわからなかった。ぼくはやり場のない怒りを持て余していた。ぼくと同じだけ怒らないクラウドさえ、憎いとまで思った。
 だけど、血だらけの体をひたすら舐めてやっている姿を見ていたら、いっぱいの憎しみが悲しみに塗り替えられていった。そうだ、クラウドは悲しんでいるんだ。ただ悲しいだけなんだ。それ以外の気持ちなんて入る隙間もないくらい、胸の中いっぱいに悲しみが溢れてるんだ。
 なにかに気付いて顔を上げたジタンが、あっと声を上げた。道の向こうから、ティーダに見守られ、よろめきながら、フリオニールが歩いて来ていた。ぼくはフリオニールが歩くのを初めて見た。おぼつかない足取りで、目も見えなくて、今にも倒れこんでしまいそうなのに、その温もりに導かれるように……いつでもお互いに引き寄せられるように、まっすぐにセシルのところにやってくる。

「……姉……さん……」

 たどり着いたフリオニールの呼びかけに、セシルのさまよう目が、いつも寄り添っていた弟猫を見つけた。

「フリオニール……歩いて……来たの……?」
「ああ……歩いてきたよ……初めて、こんなに、歩いたよ……」
「ありがとう……マグロ……持って……帰れなくて……ごめんね……」
「姉さん……ありがとう、おれのために……ありがとう……」
「……ううん……いいよ……」

 フリオニールは鼻先でセシルを探って、その頬をすり寄せ、いとおしく舐めた。
 言葉にならない響きでティーダが泣いている。姉ちゃん、とかすれた声が呼ぶと、そっちを向こうとしてセシルは一生懸命首を伸ばした。

「……ティ……ダ……」
「なに……? 姉ちゃん……」
「兄さ……と……フリオ……ニ……を……いつ……も……助けて……」
「大丈夫だよ、任せて……」
「兄……さ……」
「ああ、」

 セシルの声は、もうほとんど聞き取れなくなっていた。クラウドは触れ合うほど顔を近付けて、じっとその声に耳を傾けていた。
 特別な猫になれなくてごめんね、とセシルは言った。クラウドはささやくように、答えた。

「お前はいつまでも、おれたちの特別な猫だよ……」

 ありがとう、皆、ありがとう、と言って、それきりセシルは喋らなくなった。

 それからきょうだいは、ずっとセシルの体を舐めていた。
 もう動かなくなっても、優しい雨が生きものを慈しむように、身を寄せて、ずっと。