1.家出猫
ぼくはたまねぎだ。
あ、間違えた。
ぼくの名前はたまねぎだ。なんでかっていうと、頭の毛がくせっ毛で、いつもぴょこぴょこ逆立っているのがまるでたまねぎみたいらしいんだ。ぼくにたまねぎという名前をくれたひとは、「わたしの可愛いたまねぎちゃん」とぼくを呼ぶ。人間の言葉の全部がわかるわけじゃないけど、「わたしの可愛いたまねぎちゃん」だけは絶対に聞き間違えたりしないんだ。
ぼくは由緒正しい野良猫だ。はじめて目を開けた時、ぼくにはもうママがいなかった。寒くてさみしくて、だけどひとりで動き回るのも怖くて、必死にママを呼んでいたぼくを助けてくれたのは、人間の女の子のティナだった。ティナはぼくをあったかいタオルに包んで連れて帰って、ごしごし洗ってミルクをくれた。ごしごし洗われるのはあんまり好きじゃないけど、ミルクと、喉を撫でてくれるのは好きだ。あ、でも、ぎゅってされるのはちょっと苦しい。
ぼくはティナのうちでしばらく暮らした。ティナは“ひとりぐらし”しているらしい。あんなに可愛いのに、誰も守る人間がいないのだ。だからぼくが守らなくちゃと思って、ぼくは頑張った。がしゃがしゃ音を立てるビニール袋をやっつけたり、台所にでるあいつを追い掛けたり、窓の外に来たスズメに威嚇したり。
でもティナは、おとなしくしてって言うんだ。狩りも鳴くのもぼくら猫の本能だろ? 猫が猫らしくして何が悪いんだろう。
だけどティナが困ってるなら我慢しなくちゃ。なんたってぼくは聞き分けのいい頭のいい猫なんだ。トイレの場所だって一発で覚えて、天才だって誉めて貰ったんだぞ。
そんなふうに、ぼくらの生活はけっこううまく行っていた。それなのに何故かある日、ティナはぼくを外に出して、部屋に入れてくれなくなった。
ぼくは“あぱーと”の玄関の外で待っていて、ティナが仕事から帰ると擦り寄って中に入れてと頼んだんだけど、ティナは悲しい顔してぼくを置き去りにした。外はさみしいし怖い。聞いたことのない音がたくさんするし、夜はお日さまもいなくなってすごく暗いんだ。なんでだろう、ティナの足元で寝てた時には、電気を消しても怖いだなんて思ったことなかったのに。
ぼくが夜通し鳴いて呼んだら、明け方、パジャマ姿のティナは“あぱーと”から出てきてくれた。やっと部屋に入れると思ったのに、ティナは言ったんだ。
「ごめんね、可愛いたまねぎちゃん。大家さんにばれちゃったの。部屋には入れてあげられないの」
「なんで? なんで駄目なの?」
「このアパートは、動物を飼っちゃいけないの。猫は一緒に住めないの」
「なんで? だってぼく、おとなしくしたじゃないか! がしゃがしゃも、狩りも我慢したじゃないか! 人間みたいに!」
ティナは答えてくれなかった。もう一度ごめんねって言って、“あぱーと”の中に入っていってしまった。
ぼくはすごく悲しくなった。ティナに置いていかれたことがじゃない。ぼくの存在が、ティナを苦しめていることに。
ぼくはティナの役に立ちたい。だけど、人間みたいにしているだけじゃ駄目なんだ。人間でないと駄目なんだ。ぼくが猫でいる限り、ティナの傍にいられないし、ティナを守ることも出来ない。なんでぼくは猫なんだろう……!
そうだ……猫じゃなければいいんだ。人間だ、人間になろう。聞いた話だとこの世界は広くて、猫もあちこちにたくさんいるらしい。たくさんいるならそのうちの一匹くらいは、人間になる方法を知っているはずだ。
そいつを見つけるために、旅に出るのだ。ティナとはしばしのおわかれをして。
ぼくは“あぱーと”の窓を見上げた。さようなら、ティナ。行ってくるね。
お願いだから、ぼくを待ってて。ぼくのことを忘れないで。必ず帰ってきて、きみと同じ手で、涙を拭ってあげるから。
お星さまが眠りについて、空がおはようと光るころ。
ぼくは何度も“あぱーと”を振り返りながら、知らない世界へ旅立った。