6.待つ猫
ひとりでとぼとぼ歩いていたぼくは、ある場所に差し掛かった時、シィッと耳障りな音を立てて箒を振り回す人間と、それに追い立てられるようにして逃げ惑う猫を見つけた。
猫のほうは、猫集会で見かけた月色首輪の夜猫だった。箒に当たらないようにかわすのだけど、今度は少し離れたところに座って人間をじっと見つめる。その様子にもっといらいらして、人間はむきになって追い立てる。どうしよう、どういうつもりなんだろう。助けに入ろうか、でもぼくに出来ることなんて……
「なにしやがる!」
ぼくが迷っている間に飛び込んできたのはジタンだった。低い唸り声にびっくりして人間が一瞬動きを止めた隙に、ジタンは夜猫を連れてそこから逃げ出した。
ぼくがこっそり後をついていくと、さっきの人間からすっかり離れたところで、ジタンが夜猫を叱り付けていた。
「馬鹿野郎! 人間が恋しいのはわかるが、あんだけひどい目に遭わされてんだ。誰もがおれたちに優しいわけじゃねーってこと、いい加減理解しろよ!」
夜猫はうなだれていた。
ぼくはとたんに、夜猫がかわいそうになった。ぼくは、人間が恋しい気持ちがすごくわかる。でもそれは、ひどいことをする人間に出会ったことがないからだ。もしぼくが、箱に詰められて、川に流されたりしたら……
ううん。もしも、そんなことは絶対にないけど、もしもぼくを箱に詰めて川に流したのがティナだったら、ぼくはすごく悲しくて、なんで、なんでと泣いて泣いて、一生懸命ティナを呼ぶと思うけど、でもきっとティナを嫌いになんかなれない。ティナによく似た人間を見つけたら、懐かしくて駆け寄ってしまうと思う。なにか間違いだったんじゃないか、それに気付いてぼくを迎えに来てくれたんじゃないかって。
だからぼくはわかるよ、夜猫さん。人間の傍にいたい気持ち、わかるよ。
「そこにいるのはスコールじゃないか。お前、元気だったのかい」
ばさばさと音がして、二匹の猫の頭の上の屋根先に見慣れないカラスが舞い降りた。
ジタンが見上げて聞いた。
「スコール? こいつの名前?」
「おや? 内緒だったのかい?」
「いいや、こいつ、今喋れねーんだ」
「そうかい。まあ、あんなことがあったんだから仕方もないね」
カラスは羽繕いをしながら言った。
「しかしお前も残念だったね、せっかく首輪をもらったのに、その相手が殺されちまうなんて」
スコールという名前の夜猫が、はっと顔を上げた。
「殺された……?」
ジタンが聞くと、
「そうだよ、それで喋れなくなったんじゃないのかい?」
「そうじゃねーよ、こいつは箱に詰められて、川に流されて……」
「なんだって? ひどいことを! そんな目にあってたんじゃ、じいさんどころじゃなかったね。いいよ、あたしが教えてあげる。じいさんを殺したのは、じいさんちの下に住んでる若いのの仕業だよ。スコールのことも、じいさんを殺した前だか後だかに見かけて、気味が悪いからって殺しちまおうと思ったんじゃないかね。人間の中にはなぜか夜色のあたしらや夜色の猫を怖がるのがいるから、そいつも恐ろしくなって回りくどいやり方をしたんだろう。同族は面と向かって殺せるくせに、おかしなことだよ」
「夜色ってだけで殺そうとしたのか? ひでえ……」
「本当だよ。早く罰が当たればいいのに、あいつはまだのうのうと暮らしてる。あのじいさんはパンをくれりして、あたしも好きだったよ。だから悔しくってさ、そのうちあいつの目ん玉でも突いてやろうかって思ってたところさ……おっと、もうすぐ鳥集会の時間だ、悪いね、行かなくちゃ。ともかくお前が無事で良かったよ、スコール。またそのうち歌を聞かせておくれ」
一方的に喋ってカラスは飛び立っていった。だけどぼくは、カラスの後ろ姿なんて見ていやしなかった。話の途中から、夜猫がどうにかなってしまうんじゃないかと心配で目が離せなくなっていたんだ。
夜色の毛並みはみるみるうちに逆立って、体中にがちがちに力が入って震えていた。爪はかたい地面さえ削り取ろうとするように深く食い込んでいる。そして、大きく見開かれた空色の目……
カラスのばさばさが聞こえなくなるのとほとんど同時に、スコールは地面を蹴って走りだしていた。ぼくがあっと思うより早く、ジタンも飛び出した。
他に何も見えていない、ただひとつの決意に突き動かされているスコールは信じられないスピードで走ったけど、それでもジタンのほうがほんのちょっとだけ速くて、なんとか前に回り込んでスコールを止めた。二匹の猫は、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで向き合った。
「馬鹿なことを考えるのはやめろ! そんなことをしてなんになる!」
ジタンが叫んだ。ぼくにはそれが、悲鳴みたいに聞こえた。まるでジタン自身が傷つけられたみたいに。
「お前が人間に立ち向かったって、せいぜい引っ掻いて、噛み付いて傷をつけてやれるぐらいだ。その傷だって、七日もしたら治っちまう! その代わり、今度こそお前は殺されるぞ! お前はこれから過ごす十何年を失う。おれたちにとって長い大事な時間だ。お前は未来をまるごと失うのに、相手の人間に与えられるのは一時の傷と、一時の恐怖だけなんだぞ! おまけに人間は忘れる! お前のことなんてすぐに忘れちまう! それでいいのか!? お前はそんなことのために殺されて、未来と、じいさんの記憶まで壊されて、それでいいのかよ!」
スコールはジタンの勢いに押されるようにして、前足を突っ張って震えていた。なぜだかぼくも、いつからか、震えていた。
ぼくは思った……かみさま、月のかみさま、あんまりです。こんなのあんまりです。スコールは人間が好きです、大好きなじいさんに捨てられたなら人間を許せます。だけど、大好きなじいさんを殺した人間は許せない。許せないのに戦うことも出来ない。二度とじいさんにも会えない! 短いいのちだからこそ猫はいつも前に進まなきゃならないのに、このままじゃ、スコールはずっと同じところから動きだせない!
声にならない響きで、スコールの喉から息が漏れた。本当につらかった。スコールを押し止めずにいられないジタンもつらい、見ているだけのぼくもつらい、震えるスコールもつらい。皆が悲しみの風に巻かれて溶けてしまいそうだった。
その風を切り開くように、一匹の猫の声がした。
「スコール、じいさんに会いたいか?」
いつからだろう、二匹の脇の塀の上にバッツがいて、スコールを見下ろしていた。
スコールはじっとバッツを見上げた。それが返事の代わりだった。
「そうか。じゃあ、おれについてこい」
そう言って、バッツはゆっくり歩きだした。
ついていった先は、人間が作ったらしい、たくさん石が並ぶ場所だった。その石のひとつの前でバッツは止まった。
「この下に、お前のじいさんがいる」
ぼくにはその意味がよくわからなかった。ジタンにはわかったみたいで、つらそうに顔を背けた。
スコールはわかったんだろうか。右の前足をそっと石に乗せて、 風のささやきよりもっと小さな声で、じいさん、と呼んだ。初めて聞いたスコールの声の悲しい響きを、ぼくは一生忘れないと思う。
「お前のじいさんはここで、少しずつ世界に戻り始めてるんだ」
バッツがとても優しく言った。
「土に戻って、草や木になって、水になって、空気になって、生き物の中に取り込まれて、世界を巡って、いつかはお前のところに帰ってくるんだ。もしかしたらもう傍まで来ているかもしれないな」
ぼくはなぜだか空を見上げたくなった。風が吹いて、鳥が飛ぶ空。そこに、ぼくの見たことのないものが……たとえば、一度も会ったことのないぼくのママがいて、ぼくを見つめているような気がして。
バッツは続けた。
「きっとじいさんは、お前の歌が聞きたくて帰ってくるんだろうな。お前がまだここにいることを信じて、帰ってくるんだろうな。だからおれは思うよ、人間に爪を立てて消えていくよりは、じいさんの目印になるように歌って、じいさんのために歌って、そしていのちをまっとうしたら、じいさんと一緒になって世界に戻っていったらいいんじゃないかって。どうだい、スコール。そう考えたら、未来を失うのが怖くならないか? じいさんとまた会えるチャンスを、待っていたいと思わないか?」
スコールは黙って、爪先でそっとじいさんの石を撫ぜていた。何度も、何度も。ぼくらは辛抱強くそれを見守っていた。やがて時告げ鳥がお日さまのさよならを伝えて飛ぶころ、スコールは顔を上げて空を見た。
眩しい空の高くを目指すように、夜色の体がそびえている。そして、きらきらお星さまがこぼれ落ちるみたいに溢れ出す、大好きなひとのための歌。それは心の奥まで落ちてきて、ぼくのどこかで眠っていた感覚を目覚めさせる響きだった。
ぼくはまた、あの言葉を思い浮かべた。ああ、これは間違いない。とってもあたたかくて優しい、ホーリーだって。