4.猫集会の夜
きょうだいのところでの暮らしは大変だった。本当に大変だった。
一番上のお兄さんのクラウドは目付きの通りに厳しくて、たとえば他の猫に会った時の挨拶の仕方とか、正しいごみの漁り方とか、目標物にうまく土をかける方法とか、こと細かくぼくに指導した。ぼくがうまく出来ないとあの鋭い目でぎろりと睨むので、ぼくは何度も逃げ出したくなった。
一番下のティーダはよくぼくと遊んでくれたけど、ティーダはものすごくすばしっこくて、お上品なぼくにはとても追い付けないスピードで逃げ回るので、鬼ごっこしてもまったくかなわない。結局いつもぼくのほうが、気付くと首根っこを噛まれて押さえ付けられているんだ。
傷心のぼくを舐めて慰めてくれるのはいつもセシルだった。だけどセシルはセシルで、スズメや鯉をくわえていた血塗れの口で舐められそうになるとぞっとすることもある。フリオニールとはあまり喋らないから、よくわからない。
夜はまだ寒くて、ぼくらはベンチの下でくっついて眠った。きょうだいは皆土埃を被って汚れているし、せっかくティナが綺麗にしてくれた毛並みが台無しになる気がして最初は嫌だったけど、そのうち慣れてしまった。くっついて眠ると他の猫の胸の音が聞こえて、すごく安心するんだ。
そんなわけで、暮らしは大変だったけどものすごく嫌なわけじゃなかったし、良いところもあった。だから満月の日までの毎日はあっという間だった。
そしてとうとう猫集会の夜が来た。
日が暮れたころ、公園までバッツが迎えに来てくれた。
「よう、たまねぎ。なかなかいい顔になったじゃないか」
「まだまだだよ、こいつ、バッタの一匹も狩れないんだぜ」
「うるさいな! ティーダ!」
怒鳴るぼくの後ろで、昨日も勝ちを相手に譲ってきたクラウドが、のっそり立ち上がった。
「行くか……」
「兄さん、気を付けてね」
「ああ」
「あれ、クラウドも行くの?」
ぼくが聞くと、
「猫集会は大事な情報交換の場だからな」
「ここらの猫が一堂に会して、縄張り内の問題や変わったことなんかを報告するのが猫集会の目的なんだよ」
バッツが付け足してくれた。
「まあ、行けば雰囲気もわかるさ」
「ふうん」
ぼくはこの猫集会がとにかく楽しみだった。もしかしたら願いが叶って、ティナのところに戻れるかもしれないからだ。
バッツとクラウドに連れられて、集会が行われる小さな公園に向かった。きょうだいが住んでいる公園からはそう遠くなかったけど、最近体力がついたはずなのに、着くころにはぼくはすっかり疲れてしまった。
集会場には、もうたくさんの猫が集まっていた。ほとんどが大人の猫だったけど、中にはぼくより小さな猫もいて、仲間同士転がるようにして遊んでいる。さすがに大人の猫は皆貫禄があって強そうだ。それに比べてぼくが一緒にいるのは、どこにでもいるような普通の猫のバッツと、ところどころ毟られてハゲのあるクラウドだ。ぼくは不安になった。もしもここで喧嘩になったりしたら、無事に生きて帰れるのかしらん。
「お、やっと来たな」
初めて会った時と同じように、ジタンがどこか高いところから飛び降りてきた。
「ジタン、今夜は出てこられたのか?」
バッツが聞くと、
「この季節は窓を皆閉めちまうからな。夕方っから外にいたよ。おかげで晩メシ食いっぱぐれたぜ」
落ち込んだように自分のお腹を見つめてから、ジタンは顔を上げて、辺りを見回した。
「それにしても、今夜はなかなか出席率がいい……お、バッツ、見ろよ。あいつ来てるぜ」
バッツが振り向くのと一緒に、ぼくもジタンの鼻先が指すほうを見た。公園の柵の外側にある灯りの足元に、一匹の猫がうずくまっている。灯りの下だからよく見えるけど、そうじゃなかったら暗闇に溶けてしまいそうな夜色の猫だ。
「ちょっと行ってくる」
バッツが夜猫のほうに行ってしまうと、ぼくはジタンに聞いた。
「バッツの知り合いなの?」
「ここらの猫で、バッツと知り合いじゃない猫なんていねーよ」
「あの猫も、集会に来たんでしょ? こっちに来ればいいのに」
「来れねーんだ。だからバッツが行ったんだよ」
バッツが話し掛けている。多分、一緒に来いみたいなことを言ったんだろう。でも夜猫はいやいやをして、絶対ここから動かないとでも言うように、地面に爪を立てていた。
やがて諦めたのかバッツが隣に座ると、緊張を解いたのがわかった。
「あいつも首輪つきだったんだ。きらきらした月色の首輪をしてるだろ?」
ジタンが言った。
「うん……でも“だった”って?」
「いろんなやつらから聞いたとこによると、あいつは独り暮らしのじいさんに首輪をもらったらしい。なかなか歌がうまくて、じいさんがギターを爪弾いたりするのに合わせてよく歌ってたそうだ。
だけどそれがある日、いきなり捨てられちまったんだ」
「捨てられたって……?なんで?」
「知らない。突然箱に詰められて、川に投げ込まれたんだ。飛び石に引っ掛かってたところをおれとバッツで見つけて、箱を破いて助けだしてやったんだけど、ひどいパニック状態でさ。それから一言も喋らないし、暗いところも駄目なんだ」
ジタンの声は静かだったけど、心の底から怒っているのがよくわかった。
ぼくは耳を塞ぎたくなった。また人間の嫌なところを知ってしまった。箱に詰められて川に投げ込まれるだって? どうしてそんなひどいことをするの? 石を投げるみたいに、人間にしかわからない面白いことがあるの? もしそうなら、ぼくはわかりたくない。人間になんか……
いけない! それは危険な考えだ。そんなひとばっかりじゃない。ティナみたいなひともいる。だからぼくは、人間になりたいんだ――
「それでは、春待ち月の猫集会をはじめる。」
重々しい声が響き渡った。ぼくは我に返って声のしたほうを向いてみた。滑り台の階段の真ん中辺りに、体の大きな威厳のある猫が座っていて、公園中を見渡していた。
「あれが、議長さ」
気を取り直して、ジタンが小声で教えてくれる。
「そいで、てっぺんでごろごろ寝てるのが御使いさま」
階段に沿って視線を登らせていくと、滑り台の頂上のところに何かが丸まっていた。
正直なところ、ぼくはかなりがっかりした。拍子抜けだ。なぜって、御使いさまと呼ばれたのは、どんよりした曇り空の色の毛皮の普通の猫だったからだ。同じ猫なら、どう見たって議長猫のほうがよっぽど偉そうで強そうで堂々としていて、御使いさまっぽい。本物のほうは丸まっててもスタイルがいいのがわかるし、目を閉じててもハンサムなのがわかるけど、むにゃむにゃ口を動かしている様子は、どこか間抜けにさえ見えた。やっぱりただの猫なんじゃないの?
や、違う……ぼくは見た。手すりの間からぶらぶら垂れ下がっている曇り空色の尻尾の先が、ぴょっこりふたつに分かれていたのだ。ぼくは思ったね……やっぱりこいつは本物だ。
議長猫がよく響く立派な声で言った。
「それでは、本日も北の縄張りから太陽周りで報告をするように」
ぼくにはよくわからない取り決めで、きちんと順番が決まってるらしい。皆心得たように、スムーズに報告をして行く。
どこどこ地区はリーダーが交替しました。どこどこのアパートが取り壊しの為ごみが減ります、周辺の猫は新しい食事場を見つけるように。最近猫さらいが出没しています。カラスに子猫を狙われないよう周りの大人で守りましょう。どこどこに備え付けられている捕獲器に捕まると、繁殖能力に重大なダメージを与えられるので注意してください、などなど。
一通りの発言が終わると、議長は頷いた。
「よかろう。それぞれ今の報告を持ち帰り、より良い生活にする為に役立てるように。さて、とうとう春待ち月と言うことで、そろそろまたオファのシーズンになる。この季節はオファを巡るトラブルが多くなる。必ず双方の意思を尊重し、くれぐれも命にかかわる争いのないように」
ぼくはまた、ジタンにこっそり聞いた。
「オファってなに?」
ジタンはそっけなく返した。
「お子さまにはまだ早い話さ」
馬鹿にして!
「議長、発言をよろしいか?」
公園の植え込みの脇、一段高いところに座った猫が言った。なんというか……これでもかとふわふわの綺麗な毛並みで、一目見ただけでただものじゃないってわかる、つんと澄ました猫だった。
議長がよろしいと言うと、澄まし猫は、ぼくの隣でぴんと背筋を伸ばして座っているクラウドに向けて言った。
「おおやなぎ下のクラウドの妹は、去年も交際期を迎えず、オファの受け入れもしなかったようだが、それは猫社会の輝かしい未来の訪れを阻む不届きな行為である。そのような勝手が許されて良いものか」
クラウドは答えた。
「たとえ交際期が来たとしても、妹は、世界中で最も美しく高貴で優れた猫にしか嫁がせない」
「はっ、そのような猫が、お前の妹など相手にするものか。あんな埃まみれで傷だらけの女猫、世界中で最も下劣で醜い猫でさえ願い下げだろうよ」
「なんだと……!!」
澄まし猫の言っている意味はちんぷんかんぷんだったけど、セシルが馬鹿にされてることだけはぼくにもよくわかった。
全身の毛を逆立てて唸るクラウドを、ジタンが慌てて止める。
「よせよ! 見ろって、あのお取り巻きの数。万年負け戦のお前が挑んだって勝てるもんか!」
「誇りを傷つけられて黙っていろと言うのか? それでもお前は猫か!」
澄まし猫の周りにはたくさんの猫が侍っていて、皆でこちらを見てくすくす笑っていた。ぼくはちょっとだけ、クラウドから離れて知らない猫のふりをしたくなった。だけどすぐに優しいセシルの舌の感触を思い出して、そんなことを考えた自分がものすごく嫌になった。見ないふりだなんて、猫として最低だ!
「まあ……おれもセシルには世話になったからな……よし、そこまで言うなら仕方ねーや、お前に加勢してやる!」
ジタンがさらっと意見を翻して、クラウドの横に並んで身構えた。
どうしよう、このままじゃ喧嘩になる。ジタンがどれくらい強いのかわからないけど、どう考えたって負けるに決まってる!
その時、がやがやしたその場を一気にしんとさせる鳴き声が響いた。
静かな猫の声なのに、雲の隙間から零れ落ちる光を見た時のような、透き通った夜の空の中に小さな星を見つけた時のような、胸の辺りをぎゅって捉まれる声だった。その感覚をぴったり表す言葉をその時のぼくは知らなかったけど、あとでバッツが教えてくれた……それは、“ホーリー”だって。
滑り台のてっぺん。今まで眠っていた御使いさまがのろのろ起き上がり、背中をぎゅうっと伸ばした。
「御使いさま、何か御用がございますか?」
議長猫が恭しく聞くと、御使いさまはあの声で答えた。
「……わたしに会いに来たものがいる」
御使いさまの眠そうな目がぼくに注がれた。すると他のたくさんの猫も、まさに今起こりそうだった喧嘩を忘れてぼくを見た。
注目を浴びて、どうしたらいいのかわからずに体を竦ませていたぼくを、灯りのほうから戻ってきたバッツが助けてくれた。
「おれが連れてきたんだ、御使いさま。御使いさまに願いごとがあるっていうから」
「バッツ……バッツ、ぼくは後で良いよ。他の猫たちの願いごとを先にして」
バッツはぼくのほうを見てぱちぱち瞬きをしてから、優しく言った。
「御使いさまにお願いをする猫は、滅多にいないんだよ」
「なんで……?」
「さあ、なんでだろうな」
不安が込み上げてきた。ぼくはてっきり、皆が皆御使いさまに叶えてもらいたいお願いごとを持ってるんだと思ってた。猫の生活はつらい。ああしたいとか、こうなったら良いとか、たくさん思っているはずだもの。
もしかしたらなにか、それを御使いさまにお願いしない理由があるの? たとえば、願いごとを叶えてくれる代わりに何か大事なものをなくしてしまうとか……?
ぼくの不安を感じ取ってくれたのか、バッツが言った。
「御使いさまは猫の幸せだけを考えてくれてる。だから、願いを叶える代償を求めない」
「でも……」
「人間になりないんだろ、たまねぎ。勇気を出せ。自分で考えたことなら貫かなきゃ駄目だ。さ、御使いさまのところに行って、願いごとを言うんだ」
「バッツ、一緒に行ってよ……」
「おいおい、とんでもない甘えん坊だな」
だけどバッツは一緒に来てくれた。滑り台に近づくと、議長猫はぼくらに道を譲るように階段から飛び降りた。階段は御使いさまのところへ一直線に続いている。緊張して足が震えた。
バッツに鼻先で押されるようにして、ぼくはびくびくしながら階段を上った。御使いさまは、てっぺんに寝そべりながら尻尾をゆらゆら揺らしてぼくらを待っていた。その前に突き出されると、ぼくはなんだか自分がものすごい悪いことをして、これから月のかみさまに怒られる罪猫のような気持ちになった。
ぼくが目の前に立つと、御使いさまは言った。
「猫の子よ、きみの願いはなんだ?」
ぼくはありったけの勇気を込めて答えた。
「人間に、なりたい……人間にしてください」
御使いさまの目が細められる。
「なぜ、人間になりたいのだ?」
「人間の女の子の傍にいて、守ってあげたいから……」
「なぜ、人間になる必要がある?」
「だって、猫のままじゃティナの役に立てない……猫のままじゃティナを守れない、猫のままじゃ、なにもかも駄目だから!」
ここが猫集会だってことを忘れて、ぼくは叫んだ。公園中がざわついたけど、今は関係なかった。
「ふむ……」
御使いさまは、前足の上に顎を乗っけて、ゆっくり言った。
「きみは、別の存在になる意味をよくわかっているのか?」
「別の存在になる、意味……?」
「言い換えれば、こうなる。きみが猫である理由を、わかっているのか?」
「そんなこと……ぼくが猫に生まれたのは、ぼくが決めたことじゃない。かみさまが決めたんだ」
「そう、神が決めたことだ。神にしかわからぬ理由があってそうなった。ではきみの理由は、神の理由を覆す力を持つのか?」
ぼくは答えられなかった。
御使いさまは、ぼくの後ろのバッツに話しかけた。
「バッツ、きみがここに導いたのか?」
「そうだって言ったろ?」
「わたしが言うのはそういう意味ではない。他でもない“きみ”が、別の存在になろうとする猫の子を導いたのか?」
「……ああ、そうだよ」
「そうか。きみにもきみにしかわからぬ理由があるのだな」
御使いさまはもう一度、ぼくを見た。
「猫の子よ、わたしにはきみを人間に変える力がある。だがきみはあまりにも幼い。そして知らなければならないことを知らない。わたしは、今、きみに必要なのは変化ではないと考える。きみが知るべきことがらを知り、受けとめ、それでも神の理由を上回る勇気と決意、そして理由を持つというのなら、その時わたしは変化を与えることを約束しよう。知るべきことはすべて、きみと同じ猫たちが教えてくれる。今は、猫の中で生きなさい」
そう言うと、御使いさまは大きなあくびをして、そのまままたむにゃむにゃと眠りについてしまった。それからは、ぼくがどんなに呼びかけても目を覚まさなかった。
議長猫がどこかで集会の終わりを告げた。猫たちがばらばらと公園からすみかに帰っていく。だけどぼくは、滑り台のてっぺんから動くことが出来なかった。
ぼくは、人間になってからいろんなことを知ればいいと思ってた。かみさまがぼくを猫にした理由なんて考えたこともなかったし、ぼくが猫であることなんて重要じゃないと思ってた。だから、人間になりたいって思ったんだ。
御使いさまは、ぼくには知らなければならないことがあると言った。知らなければならないことを知れば、人間にしてくれるとも。でも、何を知るべきなのかは教えてくれなかった。
猫集会の夜を終えても、ぼくは結局何も変わらないまま。ただわかるのは、ぼくの願いが、御使いさまに受け入れられなかったということだけだった。