2.首輪つき猫
ぼくの旅はいきなりつまずいた。なぜってぼくはひとりで町を歩いたことがない。町にはぼくをごしごし洗うひともいないけど、ミルクをくれるひともいないんだ。
お日さまがこんにちはして空のてっぺんに昇ったころには、ぼくはくたくたで、はらぺこだった。今どこを歩いてるかわからないし、“あぱーと”がどっちの方向かもよくわからなくなってしまった。ぼくは不安になった。もし人間になれたとしても、無事にティナのところに帰れるかしら……だいじょうぶ。なんたって人間だもの。人間の町で迷うはずないじゃないか。
でも今はそれ以前の問題だ。もう一歩も歩けない。ぼくはこのままここで死んでしまうのかもしれない。まだ人間になる方法どころか、猫の一匹とも出会ってないというのに!
「お前、こんなところで何をしてるんだ?」
このまま干からびてしまいそうだったぼくの耳に、初めて聞く猫語が聞こえてきた。
(ぼくは生まれてすぐティナと暮らしはじめたので、他の猫が喋る猫語を聞いたことがない。だけど全ての猫は、生まれた時から猫語がわかるものなのだ!)
建物の陰でぐったりしていたぼくは、一生懸命顔を上げた。そこには、ぼくが生まれて初めて見る自分以外の猫がいて、ぼくを見下ろしていた。
「首輪つきか?」
「首輪つきって……?」
「人間と一緒に暮らしてる猫のことだ」
「ちょっと前まで、暮らしてた……」
「じゃあ、迷子か?」
「ちがう……旅に出たんだ……」
「迷子の猫は、よくそう言う」
「ほんとだ!……ただ、おなかが……すいただけで……」
「ふうん……」
その大地色の猫は、ぼくをじろじろ眺めて言った。
「食うものって言ったって、お前はそこらのものは駄目そうだもんなあ」
それどういう意味だと聞きたかったけど、お腹が空きすぎて声も出なかったから、ぼくはついてこいと言う大地猫を、黙ってよろよろ追い掛けた。
大地猫はあるおっきい家の前に来ると、ぴょんと塀に飛び乗って、家に向かって呼び掛けた。
「ジタン、ジタン、いるか?」
「いるぜ」
返事があってからすぐに、屋根からもう一匹、猫が降ってきた。ぼさぼさの毛並みに首輪なしの大地猫とは違って、綺麗な毛並みに首輪の代わりのリボンを結んだ猫だった。きっと、ごしごし洗ってブラシをかけてくれる人がいるんだろう。クリィム色の毛皮はどこもかしこもつやつや輝いている。
「よう、バッツ。見ない顔を連れてるじゃねーか」
ジタンと呼ばれたクリィム猫は、塀の上でうまくバランスをとりながら気持ち良さそうに伸びをした。
バッツという名前らしい大地猫が、ぼくをちらりと見て言った。
「旅猫らしい。腹が減ってるみたいなんだが、首輪つきだしまだ子どもだし、滅多なものは食べさせられないと思ってさ」
「旅猫? 迷子猫じゃねーの?……まあ、人間の作ったメシに慣れてたら、いきなりそこらへんのもの食ったら腹壊すだろうな」
「お前もはじめはそうだったもんな」
「ああ、おれみたいな箱入り息子にネズミ狩りはキョーレツだったぜ」
「よく言うよ、その後すぐに外遊びの常連になったくせに」
「外のもんは、一度食うと病み付きになるんだよな。まあいいや、とにかくそいつに何か食いもん持ってきてやるよ。チビの行き倒れは夢見が悪いや」
ジタンは、うっすら開けてある窓から家の中に飛び込み、やがて魚の切り身をくわえて戻ってきた。
「ほらよ。こいつは人間が作った猫のおやつだ。人間用のメシと違って塩分も少ないし、カロリーも……」
「ジタン、うんちくは後にしてやれよ。そいつ、今にもお前に食いつきそうな顔してるぜ。」
その通りで、ぼくはもう話なんか聞いていなかった。今のぼくにはジタンの足元の切り身しか見えていなかった。ジタンがちぇっと言って許すと、ぼくはかっこ悪いくらいがっついて、そいつを平らげてしまった。
全部食べ終わって一息ついてから、ぼくはやっとのことでお礼を言った。
「ありがとう、おいしかった」
「よし、少しまともな顔になったな。おれのとっときをやったんだから、感謝しろよ」
「……うん」
「ったく、お前みたいなちっこい首輪つきが、ひとりでなにうろうろしてやがる。バッツに会わなかったらどうなってたと思うんだ?」
「まあ、外に興味を持つ年ごろなのさ。で? 旅に出たばっかりって言ってたが、どうして旅に出ようなんて思ったんだ?」
ぼくは正直に答えた。大地猫は優しく「そうか」と言ってくれたけと、クリィム猫は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「せっかく猫に生まれたのに、人間になる必要なんてねーだろ」
「ある! 人間になれば、ティナを守れるんだ!」
「そんなの、もとから人間のやつに任せるか、犬のやつらに任せろよ。人間は猫のおれらに、身を守らせる役目なんて期待しちゃいねーんだから」
「まあおれたちは、多少鋭い爪があるくらいで、牙も唸り声も犬には負けるからな」
「だから人間になりたいんじゃないか! 猫でいたら、ティナを守れないんだから!」
言ってみてからぼくは、はたと気付いた。
「……ジタンは、人間と暮らしてるの?」
「ああ。」
「ティナは……人間と猫は一緒に暮らせないって……」
「人間にも色々いるんだよ。自分で住む場所を自由に選べるやつらは、おれらと一緒に暮らせるような家を探せる。でもそうじゃない人間は、猫が住んじゃいけない建物に暮らさなくちゃならない。お前の女の子もそうなんだろ」
「じゃあ尚更……人間になりたい。猫でいたら駄目なんだ……」
「あのなあ、お前……」
ジタンは少し怒ったように言った。
「人間は、わけもなくおれらを抱き締めたり、肉球を触ったりするのが好きだ。よくわからんけど、そうするとどうも幸せになるらしい。おれらはべたべたされんのがあんまり好きじゃねーけど、そういう時はちょっと我慢して、広い心で触らせてやるんだ。そいでその代わりに、人間からメシを貰う。猫と人間は、そういう対等な関係なんだぜ。だけどお前の話を聞いてると、おれらが人間よりずっと下の生きものみてーじゃねーか」
「でも、ぼくがティナと暮らせないのは事実じゃないか」
「それは人間に合わせて生きようとするからだろ? 本当に一緒に暮らしたいなら、人間のほうがおれらに合わせばいいんだ。それが出来ないなら、おれらと暮らす資格なんかないね」
ばしりと言い切られて、ぼくはどうしたらいいのかわからなくなった。たくさん言い返したいのに、なんて言ったらいいのかわからないんだ。ジタンの言うことは間違っていない気がするけど、人間と一緒に暮らしているのに、人間に冷たすぎるんじゃないだろうか。
ぼくが迷っていると、話をじっと聞いていたバッツが言った。
「おれたちに首輪をつけたくせに、一緒に暮らせないと言って放り投げる人間を知っているから、ジタンはぴりぴりしてるんだよ。だけどジタンが本当に言いたいのは、人間になって傍にいること以外にも、猫だからこそ出来ることがあるんじゃないかってことさ」
「ぼくには……よく、わからない……」
「まあ、子どもにはまだ難しいかな」
子どもと言われるのは悔しいけど、言われても仕方がなかった。ぼくはまだ、知らないことだらけだ。ティナ以外の人間を知らないし、ぼく以外の猫とも今日初めて会ったぐらいだ。
どうしても人間になりたい。あんなに言われてもその気持ちは消えないけど、ぼくより長く人間と付き合ってるジタンを納得させることが出来ないのは、ぼくがつらいことも何も知らない子どもだからなんだ。
落ち込むぼくに、バッツが言った。
「人間になる方法が、ないわけじゃないんだぜ」
ぼくはびっくりして顔を上げた。
「月の御使いさまにお願いして、御使いさまが叶える価値がある願いだと判断してくれたなら、人間にだってなれる」
「御使いさまは、どこにいるの?」
「どこにいるのかは誰も知らない。真実の目を持つものだけが見つけることが出来ると言われてる。ただ、満月の日の猫集会の時だけはどこからか必ず現れて、皆の話を聞いてくれるんだ」
「ぼく、その御使いさまに会いたい!」
「願いを叶えてもらえるかわからないぜ?」
「それでも!」
ぼくは思ったんだ。わからないことはいくら考えたって仕方がない。人間になる方法があるのなら、人間になってから皆を納得させる理由を見つければいいじゃないかって。
ぼくの返事を聞いたバッツは、つまらなそうにそっぽを向いているジタンに言った。
「猫それぞれにいろんな理由があるんだ。最初から夢を潰すこともないだろ」
「おれは、人間になるなんて夢、ろくでもないと思うけどな」
「でも、御使いさまはそうは思わないかもしれない。試してみるのもいいんじゃないか?」
「……まあ、お前がいいと思うなら、おれはこれ以上は言わねーよ」
ジタンが頷くと、バッツはぼくに向き直って言った。
「次の満月の夜、猫集会に連れていってやるよ」
「ありがとう!」
「その代わり、これから連れてく場所でしばらく過ごしてみな。おれたちが猫である理由が、少しわかるかもしれないぜ」