永遠の旅 - 10/10

10.永遠の旅猫

 

 ぼくはバッツと歩いていた。
 振り返っても、ふたつの季節を過ごした公園はもう見えない。胸の奥から押し寄せるなにかがあって、何度も叫び出したくなるのを堪えた。だけどこれはぼくが決めたこと。離れても、どこかで必ず繋がっているって信じることが出来るから、つらい別れだって我慢できるんだ。

「人間の中で、暮らしていけるのか?」

 ちょっと前を歩きながら、バッツが言った。
 ぼくは答えた。

「うん、暮らしていけると思う」
「人間を許せた?」
「許すとか、許せないとか、まだよくわからない。でも答えを教えてくれるのは、人間なんじゃないかって、セシルが言うんだ。それにね、やっぱりぼくは、ティナが好きだから」
「そうか……」

 いつの間にか、あの日、バッツと初めて会った場所まで来ていた。自分で決めたこととはいっても、やっぱり名残惜しさはある。このままさよならする気になれなくて、ぼくはバッツと向き合うようにして座った。

「ぼくのことより……皆は、大丈夫かな」

 猫にひどいことをする人間はたくさんいる。スコールを川に捨てた人間も、セシルを叩いた人間も、フリオニールに石を投げた人間も、今も同じように暮らしている。首輪つき猫はまだましだけど、外で暮らす猫には生きにくい町だった。
 でもバッツは言った。

「お前が心配するようなことはなんにもないさ。この町には、御使いさまや、立派な女王猫がいる」
「うん……そうだね」
「猫は猫で、力をあわせて生きていけるよ」
「奇跡の時みたいに?」
「ああ。奇跡の時みたいに」

 月のかみさまの優しさと仲間の想いで生き返ったセシルは、体中の傷もすっかり消えて、見違えるみたいにきれいな毛並みを取り戻して、誰もが女王猫と慕わずにはいられない猫になった。セシルとおしゃべりしたい猫も増えて、澄まし猫はライバルばかりで拗ねてしまったらしい。それでもセシルの中身は全然変わらなくて、木登りしたり、池の鯉にチャレンジしたりするのが相変わらず大好きで、その度にクラウドが顔色を変えて駆け寄って「お前は女王猫なんだからそんなことをするな!」と叱りつけるのがあの公園の日常になってしまった。
 そのクラウドだけど、こっちもこっちで光の雨に洗われて、ぴかぴかのお日さまの毛並みがよみがえっていた。そんじょそこらの猫とは比べ物にならない、ただものじゃない感じがものすごくかっこいいんだけど、やっぱり縄張り争いにはいまいち力を発揮できないみたい。でもこれは最近わかったことだけど、クラウドが弱いってわけじゃなくて、マンションの辺りを縄張りにしてる猫がとっても強いんだって。一度ティーダと観戦に行ってみたら、相手の猫は、ジャンプ攻撃から鋭い爪をびしばし使った斬りつけ攻撃までいろんな技を持っていて、とてもじゃないけど普通の猫が敵う相手じゃなかった。そんな猫にもへこたれずに挑むクラウドは、もしかしたらものすごい勇者猫なのかもしれない。
 別れの時までに、一緒に過ごした時間が一番長かったのはティーダだった。ティーダはぼくのことをすごく心配していた。ティーダは人間が好きだから、ぼくが人間のことで迷っているのを見るのがつらかったのかもしれない。ぼくを町に連れだして、たくさんの人間と会わせてくれた。ひどいことをする人間はたくさんいるけど、優しい人間もたくさんいる。優しいけど、どうやってぼくらと付き合ったらいいのかわからないひとも。ティーダはそういうひとの心を開かせるのがとても上手だった。ティーダが擦り寄ると、笑顔になるひとがたくさんいた。ぼくも、そういうふうになりたい。
 そして、フリオニール。
 猫の奇跡がよみがえらせたのは、セシルだけじゃなかった。フリオニールの体をいじめていたいろんなものは、光の雨が消してしまった。フリオニールは今ではいろんなものを見て、いろんな音を聞いて、いろんな匂いを嗅いで、いろんなものを食べられる。走ることだって出来る。だけど、浮かれて世界に飛び出して行くようなことはなかった。見たり聞いたりしなくても、もっと大事なことを知っていたから。だからフリオニールは、今まで通り、セシルの傍を離れることはなかった。今までと違うのは、いつも守られていたフリオニールが、今は守ることが出来るってことだ。セシルとフリオニールが寄り添っていると、女王猫とナイト猫が並んでいるみたいに見える。
 猫の奇跡は、きょうだい猫を幸せにしてくれただろうか? 皆がどう思っているのかはわからないけど、幸せだって思ってくれてたら嬉しい。……皆がそこにいてくれるだけで、ぼくは幸せだから。
 そして同時に、ぼくは理解した。どうして御使いさまにお願いする猫が少ないんだろうって。
 それは、猫は幸せ探しが上手だからだってことだった。たとえばぽかぽかのお日さまだったり、隣の猫のぬくもりだったり、夜のきれいな風だったり、人間からしたらなんてことのないものかもしれないけど、そうやって考えたら、世界には幸せがたくさん溢れているんだ。
 つらいことやままならないことがあったら、自分たちの力で一生懸命立ち向かう。うまくいかなかったら、もう一度立ち向かう。それでも駄目なら、受け入れる。それが猫の生き方だ。だから御使いさまに願いごとを叶えてもらったのは、実はぼくが初めてだったんだって。お前はおかしな猫だって、ジタンに言われたっけ。

「おい、たまねぎ」

 バッツが困ったみたいに呼びかけてきた。いろんなことを考えてて、バッツと話してたことをすっかり忘れてた。

「ごめん、ぼうっとしてて!」
「いや、いいんだけどさ。おれ、もうそろそろ行こうかと思って」
「あ……」

 急に目が覚めたみたいになった。そうだ、別れだ。
 バッツと出会ったところからぼくの旅は始まった。だからバッツと別れたら、ぼくの旅は終わってしまう気がした。立ち上がって歩き出そうとするバッツを、ぼくはとっさに呼び止めた。

「待って、バッツ!」
「ん?」
「あ、あの、その……」

 呼び止めたはいいものの、頭の中がこんがらがっていて、なにを話そうかまとまらない。だからぼくは、ほとんど思いつきで聞いた。

「バッツは、ほんとはなにものなの? ただの猫じゃないんでしょ?」

 言ってみてから、残されたなぞの中で、それが一番知りたかったことだったような気がしてきた。
 そうだ、バッツは最初っから違ってた。気ままなジタンもバッツの言うことはよく聞いた。クラウドもティーダも、バッツの決めたことに口を挟まなかった。そして、御使いさまもバッツに特別な問いかけをしてた。
 どこにでもいそうな大地色の毛並みの、普通に見える猫に、一体どんな秘密があるの?
 ぼくがじっと見つめると、バッツは、ぼくの目をじっと覗き込んできた。バッツの瞳をよく見たことなんてなかったけど……吸い込まれてしまいそうなくらい深くて、ぼくは少し怖くなった。

「本当に、知りたいのか?」

 バッツの言葉に、ぼくはちょっとだけためらってから、頷いた。
 すると、ぼくの目の前で、とても信じられないようなことが起こったんだ! バッツの体が奇跡の時の御使いさまみたいに輝き出して、その光がぐにゃりと曲がってぐいぐいかたちを変えたと思うと、あっと思う間に鳥になった。ばさばさと羽ばたく鳥はぼくの頭の上を一回転すると、また光になってかたちを変えた。
 狼、トカゲ、ねずみ、象、蝶、ぼくが驚きでなんにも言えなくなっている間に、いろんな生きものが目の前に現れた。そして最後のかたちは……ひとだった。

「……魔法使いの、人間だったの?」

 ぼくはずっと背の高い人間を見上げて言った。バッツはどこにでもいそうな普通の人間の顔をしていて、猫とは全然違ったけれど、なぜかぼくは、もしなにも知らないまま出会ったとしても、それがバッツだってことがすぐにわかるような気がした。
 人間のかたちのバッツは、首を振って答えた。

「人間じゃあ、ない」
「じゃあ、一体なんなの? 本当の姿は、なんなの?」

 おだやかに笑っていたけれど、なんだかその笑顔は悲しそうに見えた。

「なんでもない。本当の姿は、ないんだ」
「どういうこと?」
「生まれた時から、おれは“なんでもない”ものだった。光でも影でも空気ですらもない、なんでもないものだ。だからおれは、自分の姿が欲しかった。“なんでもない”ものじゃなくて、別のなにかになりたかったんだ」
「別のなにか……それで、どうしたの?」
「なれなかったよ、別のなにかになんて。“なんでもない”もののおれが別のものの姿をとっても、それは結局ただの模倣なんだ」
「もほう……?」
「物真似ってことさ。誰かの真似をしたって、真実の姿が変わるわけじゃない」

 バッツは首を竦めるようにして、遠くの空を見上げた。

「おれがこんなふうに生まれたのにもきっと理由がある。そう信じて、その理由を探してきた。だけど未だに見つからない。猫より、人より、木の命よりも長い時間、誰かの姿の真似ばかりして神様の理由を探し続けているけど、最近ふと思うことがあるんだ。理由なんかないんじゃないだろうか、おれは神様さえ知ることのない、偶然出来てしまっただけの世界の余りものなんじゃないかってさ」
「そんなはず、あるもんか!」

 ぼくはなぜだか腹が立って、思わず立ち上がって言った。

「バッツはここにいるじゃない、ここにいて、ぼくと話してる! “なんでもない”ものは考えたりなんかしないよ。迷い猫を助けたりなんかしないよ。猫の友達になんてなれないよ。だけどバッツはぼくを助けてくれたじゃない。皆バッツが好きだから、バッツのことを慕うんじゃない。それなのに、世界の余りものだなんて言わないでよ! 世界の余りものどころか、むしろ、むしろ……ああ、そうだ! ねえ、バッツは、世界なんじゃないのかな?」
「世界、だって……?」
「そうだよ、フリオニールが言ってた。ぼくらは世界の一部だって。そして、世界を通して誰かのために生きているんだって。だけど世界って、目に見えているようで目に見えないよね。本当の姿がわからないバッツみたいだ。ならバッツは、ぼくたちよりずっと世界に近い存在なんだ。だからかみさまは、世界から生まれて、世界にかえるぼくらを理解するために、いろんなものに変化できる力をバッツにくれたんだよ。そうだよ、きっとそうだよ」
「変化できる力をおれにくれた、か……今までそんなふうに考えたことなんてなかったな。自分の姿がないから変化するしかないって思ってた。まったく逆の考え方だ」
「そうだね、でも、そのほうがいいと思わない?」
「ああ……そのほうが、いいな。」

 バッツは頷くと、また光を纏って、もとの大地色の猫の姿に戻った。

「最後の最後で、お前に教えられるだなんて、おれもまだまだだな」
「教えてなんかいないよ。全部皆が教えてくれたことだから。ただぼくは、皆より物覚えも頭もいいからね、すぐに実践に移せるってだけ」
「おお、可愛げのないやつだぜ」
「別にバッツに可愛がられなくったっていいよ、ティナに可愛いって言ってもらえれば」

 その名前が、きっかけになった。
 いざその時になるとどんな顔をしたらいいのかわからなくなって、ぼくは黙って俯いてしまった。バッツは何も言わない。ありがとうとか、元気でとか、いっぱい言いたいことがあるんだけど、言葉にならない。
 だけど、さよならだけは言いたくないから、ぼくはやっとのことで、一言だけ口にした。

「……それじゃあ、また」

 また会えるかわからない。もう二度と会えないかもしれない。だけど、空や風や土や世界を通してならいつだって会える。

「ああ、またな」

 バッツもそう言うと、ぼくが背中を向けるよりも早く、近くの塀から建物の屋根へ飛び移って、一度も振り返らずに走り去って行った。
 ぼくはその後姿が見えなくなるまで見送ってから、ぼくの旅に、そっと別れを告げた。

 

 ティナは同じ場所に住んでいないかもしれない。住んでいても、ぼくのことを忘れているかもしれない。
 そんなことを考えながらアパートの前まで戻ってきたぼくは、ちょうど歩いてくるティナを見つけた。
 声をかけようかどうしようか迷う。なぜって、この旅の間にぼくの毛皮は残念なくらい汚れてしまったし、よく言えば……なんていうか、男らしく堂々とした感じになっちゃっていたから、ティナにわかってもらえるか心配だったんだ。なにより、こんなに変わってしまったぼくなんてティナはいらないかもしれない。
 でも名前を呼びたい気持ちを止められなくて、ぼくはちょっと離れたところからほんの小さな声で鳴いてみた。聞こえなかったらそれでいい。ティナの前に現れなくても、ティナを見守りながら生きていくことはできるから。
 だけどぼくの声は届いた。ティナは足を止めて、すぐにぼくを見つけた。

「ああ……わたしの可愛いたまねぎちゃん!」

 ぼく目掛けて駆けてきたティナは、ひさしぶりもこんにちはもなしに、ぼくを抱き上げて思い切り頬擦りした。

「会いたかった……たまねぎちゃん……」
「やめてよ、ティナ、汚れるよ」
「ごめんね、たまねぎちゃん……ごめんね。ひとりでずっと怖かったでしょ? ごめんね、ごめんね……」
「謝らないで、ティナ。怖くなんかなかったよ。とっても大事な旅だったよ。ぼくのほうこそ、心配かけてごめんね」
「もう絶対に離さないから、ずっと一緒にいてね。お願い……たまねぎちゃん、どこにも行かないで」
「うん、ずっと一緒にいるよ。ずっとティナの傍で、ティナを見てるよ」

 ぼくは、ぼろぼろ流れるティナの涙を優しく舐めてあげた。
 その涙を拭ってあげられる手があったらいいって思ってた。ティナがぼくを抱きしめるみたいに、ティナを抱きしめてあげられる腕が欲しかった。でもぼくはそれを選ばなかった。だから代わりに、いつも涙を舐めてあげるよ。さみしい時には傍にいてあげるよ。寒い時はぎゅってしていいよ。だってぼくは、猫だから。
 ねえティナ、ぼくはティナより先に死ぬよ。だけどそれまでは、猫として、精一杯ティナのために生きるよ。そして命が終わったら、ティナのことを思いながら世界にかえって、光や風に溶けて、またティナを探すよ。だから悲しまないで。さみしかったら、ぼくの代わりに好きなひとや、好きな猫を見つけていいから。そのひとや猫がティナを幸せにしてくれるなら、それでぼくはいいよ。
 ただぼくは、ティナの世界になりたい。ティナの世界になって、いつまでも、いつまでも、きみの傍にいるよ。きみがぼくのことをわからなくても、きっと、傍にいるよ。

 あの後ティナはちょっとばかり無理をして、ぼくと一緒に暮らせるアパートに越してくれた。それはぼくの短い旅の舞台からは遠く離れた場所だったから、以降あの猫たちと再会することはなかった。
 だけどことあるごとにぼくは彼らを思い出した。厳しいけど仲間思いのジタン、勇敢でしっかりもののクラウド、きれいで明るい女王猫セシル、物知りであったかいフリオニールに、懐っこくて頼りになるティーダ。御使いさまはまだむにゃむにゃ寝てるんだろうか、それから澄まし猫はどうなったかな? 寂しがりでやさしいスコールの歌……そしてバッツ。
 なにかつらいことに突き当たる度に、誇りと信じることを教えてくれた彼らに感謝した。そのふたつがあったから、ぼくは自分の生まれた意味を考えながら、精一杯生き抜くことが出来た。これからどんな姿に変わっていくとしても、皆と過ごした季節を忘れることなんて絶対にないだろう。

 そうして眩しい光の中を流れて行きながら、ぼくは再び出会う時のことを考えた。もう一度皆に会えるなら、どうしても言いたいことがあるんだ。
 ありがとう、ぼくは世界一幸せな猫だった、って。

 

永遠の旅・おわり