やると決めたからにはやり抜くしかない。
雪のちらつく夜の道で、腹を決めた。
目標のアパートの一室の住人について、前もって調べを済ませていた。あそこにはどういう事情か、親のない若い四人の兄弟が暮らしている。既に社会人として働き一家を支えているらしい長男は、この時間ではまだ帰宅していない。
学校を出たての長男の稼ぎだけでどんな暮らしを送っているのか、想像するのは難しくなかった。そんな人たちから力尽くで金を奪おうとしているなんて、卑劣と言われたって仕方ない。でも今は、僅かでもいいから確実な金が必要だ。ひとかけらのケーキを買って、あの人に届けてあげたかった。
幸い、この扮装を手に入れるのは簡単だった。これを着ていれば、浮かれている酔っ払いか決死の覚悟の父親に見えるだろうし、その上、人相まで隠してくれる。この日に計画を実行しようと思った理由のひとつでもあった。
寒さに肩を震わせながら、息を潜めるようにしてゆっくりと階段を上り、目当ての部屋のチャイムを鳴らした。
廊下に漏れる眩しい明かりが、この身の後ろに濃い闇を作る。ポケットの中で握りしめたナイフがひどく冷たく感じて、惨めな自分の境遇を思い知らされているようだった。
しばらくして、中から誰かが玄関へと駆け寄る足音が聞こえた。身を強張らせてドアが開くのを待っていた。出てきた誰かの喉元に刃を突きつけるつもりだったから。
でも、そうする前に気勢をそがれてしまった。出てきたのは恐らく長女で、素晴らしく綺麗で素晴らしく背の高い、ちょっと圧倒されるような美女だったのだが、こちらがその美貌にたじろいでいる間に、朗らかに笑って言ったのだ。
「降りだしてしまいましたね。お寒いところ、ようこそおいでくださいました」
予想だにしなかった展開だ。なんと言っていいのかわからず立ち竦んでいると、今度は彼女の後ろから、次男と思わしき姉と良く似た美しい銀髪の男が顔を出した。
「兄さん、本当に呼んでくれたのか」
「うん、そうみたい」
「姉さん、とりあえず上がってもらいなよ。そんなところじゃ寒いだろ?」
その更に後ろから、幼い……たぶん四兄弟の末っ子がはしっこく飛び出してきた。どうやら彼からは、背の高い姉兄に遮られて客の姿が見えないらしい。
誰が来たのか問いかける弟に、二人は振り向いて言った──サンタが来た、と。
「俺達はサンタクロースがいないってこと、もうずっと前から知ってるんです。でも兄がそれを不憫がって……なんていうか、兄は義務感が強いんです……今日はサンタクロースを呼ぶって言うんで、それじゃあ俺達は素直に喜ぼうって話をしてたんです」
どうしてこんなことになっているんだろう。あれよという間にテーブルの前に座らされている。もちろんポケットのナイフは使いそびれたままだ。
「でもまさか、見ず知らずの方にこんなことお願いしていただなんて……なんだか申し訳ないです。おもてなし出来ないんですが、せめてゆっくり楽しんでいってください」
話しかけてくる次男は、年に似合わない礼儀正しさだ。兄のことを話すときだけ、表情を崩して、少しくすぐったそうだった。
胸がきりきりと軋んで、決死の覚悟が揺らぐ。その気持ちがわかる。照れ臭くて、わざと悪く言ったりして、でも誇らしくて……
「サンタクロースさんは、何をお飲みになりますか?」
次男が聞いてきた。長女が隣に控えていて返事を待っている。慌てて首を振った。押し込みに入った先でもてなしを受けるなんて、絶対におかしい。
それを遠慮と捉えたのか、長女は小首を傾げて、それではシャンパンをご一緒にと言った。
「兄ちゃんを待たないで良いの?」
「サンタクロースさんをお待たせするわけには行かないだろ。何時になるかわからないし、先に始めよう。お前だって腹が減ってるくせに」
「あ、バレた?」
次男と末っ子の微笑ましいやり取りの間に、長女はさっと立ち上がって台所の方へ行ってしまった。あまりお喋りな方ではないようだ。お陰で準備を止めることも出来ず、気付いた時にはグラスを握らされ、乾杯までさせられていた。
空しい気分だった。手作りと思われるクリスマスケーキは、店のものよりは大分質素だが、小ぶりの苺がたくさん乗せられていて、見るからに美味しそうだ。
テーブルに並ぶ料理の数々も、一般的な家庭に比べたらご馳走とは呼べないような代物で、この家の生活も決して裕福でないことがわかる。でも、あたたかだった。人の懐を狙って、その稼ぎを全部あの人のために使って、いつかその日がくることを信じて、売れ残りの硬いパンを食べる自分には、到底手の届かないあたたかさ。
切り分けられたケーキが置かれたとき、たまらない気持ちになった。ポケットの中に手を突っ込んでナイフを握り、今すぐ傍にいる末っ子に飛びかかろうと思った、そして。
「……サンタさん、ごめんな」
ふと、末っ子の声が響いた。それは沸騰した頭から瞬時に熱を奪い取っていった。浮かしかけた腰を落ち着けることもできず、申し訳なさそうにしょぼくれる末っ子を見つめる。
「サンタさんだって、ほんとは一緒にクリスマスを過ごしたい人がいるだろ? それなのに、家に来てくれたんだよな。そうじゃなけりゃ、今頃好きな人と一緒にいられるだろうにさ」
ひげと帽子に隠されて表情は見えないと思っていたのに、思いつめた険しい顔に気づかれていたのだろう。それを末っ子は、都合の良いように解釈してくれたのだ。
「なあ、サンタさん。もうここはいいよ。ちゃんと兄ちゃんには嬉しかったって言っとくからさ。帰って、好きな人と過ごしてよ」
「……そうだよな。こんな大事な日を他人の俺達のために使ってもらって……なんて御礼したらいいのか……」
次男がうな垂れて言うと、兄弟三人ともが申し訳なさそうに肩を縮める。
どうかしている。きれいな心を見せつけられた悔しさと、自分の醜さと、こんな夜にひとりきりのさびしさとを突きつけられて、胸を掻き毟りたいような苦しさがあった。
「そうだ」
今まであまり喋らなかった長女が突然立ち上がった。そして何を思ったのか、テーブルの上の料理やケーキを片っ端から入れ物に詰め始める。じきに兄弟も姉の行動の意味に気づいたようで、曇った表情がにわかに綻んだ。
あらかた料理を詰め終わり、ケーキさえも大事に包んだところで、彼女は言った。
「もしかしたらご用意があるかもしれませんが、良かったらこれをお持ちください」
見れば兄弟も揃って頷くのを見て、心底怯えた。一体何を言い出すんだ。
どこの誰かもわからない人間を信頼しきっている彼らが恐ろしかった。自分達の幸せを、いとも簡単に分け与えてしまう彼らが怖いのだ。それならずっと、奪い取る方が楽だった。
「そんなの……駄目だ。ケーキがなくちゃ、パーティーが出来ないだろ」
罪を犯そうとする男が何を言うのか。でもこの怯えを知らぬ末っ子は、力強く言った。
「それは、違う! ご馳走がなくても、兄ちゃんに姉ちゃんにフリ兄にオレ、みんなが揃ってればそれでいいんだ!」
いつの間にか、泣いていた。自分の罪を告げることが出来ないまま、ただひたすら詫びの言葉を繰り返しながら。兄弟はどこまでも優しかった。手繰り寄せた思い出に、その優しさはいつでもあった。みんなが揃ってればいい……あの人がいてくれれば。
「さあ、これを持って。もう充分です、ありがとうございます。行ってください」
誰かが優しい声で言う。一握りの理性で、料理を押し戻した。ただ、クリスマスケーキを二切れだけ欲しいと願った。本当はこんなことは言えた義理じゃない。でも長女は、私の手にしっかりとケーキの包みを握らせた。
「サンタさんにも、クリスマスの祝福が訪れますように」
あなたたちにも。言葉にする勇気がなくて、唇の中で呟くだけ。
何もかもを傷つけたい気分だった。心はとっくに凍りつき、ぎざぎざに尖って、誰も信じていなかった。ポケットのナイフは氷の心だ。それを振るえばあの人は悲しむだろうけれど、悲しんでくれるのならそれでもいいとさえ思った。
それなのに、この部屋は、氷のナイフを溶かしてしまった。取り返しのつかない境界を踏み越えようとするのを、その微笑みで引き留めてくれた。
階段を下り、ひっそりとした路地を行く。そしてとうとうアパートが見えなくなったころ、もう一度彼らの残像を振り返り、深く頭を下げた。今はまだ駄目だ。いつか、また。
おわり